2017年10月6日金曜日

海地大破伝

海地大破(うみじ・たいは)は昭和11年5月22日、福岡県戸畑市(現北九州市)に生れた。本名、力(つとむ)。高知で生まれたのかと思っていたが、出生地は北九州市である。小学生のとき戦争の激化に伴って土佐市へ疎開。両親が高知県の出身で、大破は森沢家の三男として生まれたが、母の姓である海地家を継ぐ予定だった次男が幼少で死亡したため、大破が海地姓を名乗ることになった。独身のころ大破には放浪癖があったというが、北村泰章によると「生地に身を置くことの出来ない放浪という宿命が、すでにこのとき生じていたと思われる。何度か職を変え、転々とするなかで安住できるようになったのは、妻となる女性とめぐり遇い、公務員という職を得たときからである」。(「海地大破の人と作品」、「川柳木馬」80号)。

昭和29年12月、川柳に入門。入江川柳会に入会。高知新聞柳壇、「帆傘」へ投句を始める。高知には帆傘船というものがあり、大型の蛇の目傘のようなものを船に取り付けて、帆の代りにしたり、日よけにしたりしたらしい。「帆傘」は戦前から発行されていたようだが、昭和24年7月に復刊した。
昭和40年「ふあうすと」同人。「帆傘」の同人にもなるが、こちらは昭和49年に退会。
昭和47年1月に大破のほか小笠原望・古谷恭一・北村泰章の四人が「百句会」という集まりをもったそうである。その夜のうちに百句つくらなければ寝てはいけないというルールである。大破は三時間ほどで百句を作った。
大破の多作ぶりは有名であるが、彼がしばしば語ったエピソードに「川柳の鬼」といわれた定金冬二の思い出がある。冬二と大原美術館に行ったとき、大破は手帳に何かを書き込んでいる冬二の姿を見た。あとで同室になったとき、冬二に見せてもらった手帳には百句あまりの川柳がびっしりと書き込まれていたという。

昭和50年「川柳展望」創立会員。
昭和54年「木馬ぐるーぷ」創立。会誌「川柳木馬」は発行人・海地大破、編集人・北村泰章。創立同人は他に古谷恭一・西川富恵・村長虹子・土井富美子。
若手川柳人のグループ「四季の会」を母胎とし、高知を訪れた田中好啓・橘高薫風の「高知から新しい柳誌を出してはどうか」という勧めに応じて創刊されたという。
昭和56年、「川柳展望」38号に大破の川柳作品100句が発表される。

火の中にまどろんでいる涅槃かな
老残を晒す男の岸づたい
産み継いで地上に残る魚の骨
雨が来て隊伍崩れる壜の中
縄抜けの縄がいっぽん灰になる

平成元年、句集『満月の猫』が上梓される。
第五回川柳Z賞を受賞したあと、「かもしか川柳文庫」の一冊として発行されたものである。
「あとがき」にはこんなことが書いてある。
「句業三十年。現在に至るも納得のいく作品を書けない自分に不満を感じている」
「今までに書き溜めてきた作品を、一冊の句集にまとめることは、うれしいというよりも侘しいという思いが先行する。自分の努力の結果が、質量ともに今一歩という作品に直面すると、自分の非力さに打ちのめされる思いがするからである」

太鼓打つ血の繋がりを意識して
箸を作らんと一本の樹を削る
八月の怒りで魚の内臓を抜く
ふるさとへゆるりゆるりと腸が伸び
衰弱のはじまる縄が横たわる
猫消えた日から残尿感がある
真剣な顔で詐欺師が木を植える
しいたけ村の曇天をゆく老婆たち
つぎつぎと女が消える一揆の村
満月の猫はひらりとあの世まで
月を引くかたちで骨になっている

平成11年4月の「川柳木馬」80号「昭和2桁生れの作家群像」に60句が掲載。
作家論を堀本吟と北村泰章が書いている。
大破は師系として西森青雨の名を挙げ、愛誦句として青雨の「子よりなお妻はわがもの共に老ゆ」を挙げている。青雨について大破はかつて次のように語ったことがある。
「私は20年余、断続的に川柳をやってきたが、県柳界では真の作品批評がなかった。それは、人間の和を尊重するあまり、作品を批評することに遠慮があったように思われる。私の場合は、青雨さんからワンツーマンで厳しい指導を仰ぐことができたので、現在の自分があると感謝している」「私は、青雨さんの指導を仰いだが、青雨さんを踏襲しようとは考えていない。むしろ違ったものを志向している。それが個性ではないか。青雨さんから学びたいのは、批評精神や作品に打ち込む真摯な姿勢である。そこに青雨さんの偉大さを感じる。青雨作品を模倣せよというのではなく、心を学べと言いたい。そして、先達を乗り越えていく気概を持たなければ川柳の明日はない」(「川柳木馬」5号「座談会」)
「昭和2桁生れの作家群像」の「作者のことば」では病気について触れている。
「私は、子供の頃から病弱であった。中学三年のとき、健康診断で、身体に十分注意しないと三十歳までのいのちだと医師から宣告された。それからの私は、胃潰瘍、心臓病、脳梗塞、その他の病気で、毎年、入退院を繰り返してきた。従って、私は『生と死』のこの不可思議なテーマと永遠に向かい合うようになったが、未だ完成された作品に恵まれず忸怩たる思いにかられている」
改めて発表作品を読み直してみると、石部明の作品ともつながるような「死」のテーマが詠まれていることに気づく。

木が消えて風のむこうのかたつむり
累々と死に果て青い産卵期
一族が逃げ込んでゆく埴輪の目
死ぬときのジョークが未だ决まらない
女系家族の明るく魚の首をはね
表札に蝶が止まっている祭り
音楽が降る鳥籠に鳥の糞

さらに『現代川柳の精鋭たち』(平成12年)に大破は「喪失感」というタイトルで100句を発表。

鞄のなかの笑劇場を開演す
作り話がとても上手な鴉たち
夜桜に点々と血をこぼしけり
抱き締めた女が放つ魚臭かな
行き過ぎてあれは確かに鳥の顔
鏡のなかが賑やかすぎて眠れない
休戦のタオルを投げたのは男
蔑みの目がいつまでも壁にある
ゆっくりと紐をほどいて放浪へ
恐ろしい幻想がある消火栓

大破は「川柳定年説」を唱えたことがある。
「私のような凡人は五十歳に達したら川柳の第一線から身を退いて、新鮮で若い世代の人達にその場を譲りたいと考え続けてきましたが、その五十歳が目の前にぶらさがって来た現在も、この考えに変わりはありません」
「才能は好むと好まざるとにかかわらず必ず衰えていくものなのです。衰えと気づいたときには、スムーズに世代交替を図っていくことが川柳の発展に繋っていくのではないでしょうか」(「創」14号、昭和61年3月)
大破はこの言葉通り後進に道を譲り、木馬グループの次世代川柳人を育てることに力を注いだ。
2017年9月12日、海地大破、逝去。
大破のようなカリスマ的な川柳人が少なくなったいま、残された私たちは次のステージに進んでいかなければならないだろう。

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