2017年5月20日土曜日

「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」についての感想(続き)

「レジュメに載せてある作品から作者の名前を隠してください。これは断言してもいいんですが、短歌に比べると川柳では、作者名を隠すと男女差がわからなくなると思います」(瀬戸夏子)

前回の続きで「川柳トーク」について書くが、今回は柳本々々についての感想である。
このイベントの二週間前に現俳協の勉強会があって、柳本はパネリストとして話をした。彼の話をもっと聞きたくて「川柳トーク」に参加した方もあったようである。
柳本は俳句の読みを通じて、そもそも「読むこと」とは何だろう、と痛切に感じたようだ。彼はこれまでにも、川柳だけではなくて短歌や俳句の読みを書いて来たはずだが、「俳句」という他ジャンルのフィールドの中で「読み」の問題が改めて問い直されるのだろう。
今回も「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」というイベント名をテーマとして正面から受け止めたのが柳本だった。インパクトの強いキャッチ・コピーとしてではなく、テーマとして内面化したのだ。柳本が挙げたのは次の10句である。10句に通底するテーマは【世界の終わりと任意の世界】だとされている。

みんな去って 全身に降る味の素       中村冨二
頷いてここは確かに壇の浦          小池正博
ファイティングポーズ豆腐が立っている    岩田多佳子
オルガンとすすきになって殴りあう      石部明
妖精は酢豚に似ている絶対似ている      石田柊馬
人差し指で回し続ける私小説         樋口由紀子
中八がそんなに憎いかさあ殺せ        川合大祐
おはようございます ※個人の感想です    兵頭全郎
毎度おなじみ主体交換でございます      飯島章友
菜の花菜の花子供でも産もうかな       時実新子

これらの句を通じて、彼は川柳の「任意性」を論じた。「任意性」とは兵頭全郎の句集『n≠0 PROTOTYPE』から抽出されたものである。「川柳カード」14号でも柳本は全郎の句集について、次のように書いている。

全郎の句集はタイトルにも「n≠0」と、「n」になにかを代入するやいなや、それが〈違うかもしれない可能性〉が暗示されていたが、句にも〈内〉と〈外〉が定まらない〈任意〉の世界が描かれている。この句集は真顔でこう言っているようだ。《構造とは実は任意なのだ》と。もっと大きく言えば、川柳というジャンルは、〈任意〉なのだ。と。

この考えを柳本は瀬戸夏子の仕事につなげてとらえた。
瀬戸夏子がやっている仕事は、ある任意の方向性を変えようとするものと思われる。短歌である読み方が因習的・支配的であるときに、瀬戸夏子がそういう読みかたはどうなのだろうと疑問を投げかけ「任意」のものにする。この日のタイトル、本当は「川柳が瀬戸夏子のなかで荒れる、荒ぶることができるか」ということだと柳本は言う。
第一部で小池が歴史的な縦軸を通して川柳作品を読んだのに対して、瀬戸はそれとは別のテクストとしての「読みの枠組み」を提示した。「おれのひつぎは おれがくぎうつ」(河野春三)の句を、瀬戸は「分裂する私」「生成変化する私」ととらえたが、柳本は「任意の私」ととらえたいと言う。

「毎度おなじみ主体交換でございます」では「主体交換」がとても川柳的。日常会話では使わない思想的・哲学的な言葉を「毎度おなじみ~」という卑俗な言説に落とし込んでゆく。
「おはようございます ※個人の感想です」では、「おはようございます」という疑いようのない言説に「※個人の感想です」という通販番組的言説が付くことによって、絶対的なはずの挨拶に任意性がもたらされることになる。

柳本は10句を順に説明してゆくのではなくて、9句目→8句目→10句目→7句目、というように適宜ピックアップしながら話を進めていった。次はどの句に話が結びつくのだろうと考えるとスリリングであった。特に驚かされたのは時実新子の読みについてである。

菜の花菜の花子供でも産もうかな       時実新子

時実新子は川柳で女の情念を表現したといわれているが、それにはあやしいところがある。句集を読んでいると新子には変な句、情念句というとらえかたにはおさまりきれない句が出てくる。「産みたい」とか「産めない」「産まなければならない」ではなく、「産もうかな」という任意的な言い方だと柳本は述べた。
春三の句について小池がマッチョな言説だとしたのに対して、瀬戸は「おれ」「おれ」と繰り返すことによって「私の分裂」を提示した。
作者がこう書こうとしたはずなのに、後から読者が読んだときに別の読み方が引っ張り出されてしまうことがある。
柳本はこれを「テクスト論的逸脱」として説明した。新子が川柳を書き続けているうちに「川柳の任意性」に汚染されて、「テクスト論的逸脱」をして、それが現在の柳本によって引っ張りだされたという。
柳本は「神戸新聞」(2017年1月7日)の「新子を読む 新子へ詠む 時実新子没後10年」でこんなふうに言っている。

「私」を書く川柳で知られる作家だけれど、僕が惹かれたのは、そんな人間的率直さよりも文体の形式性。現代川柳とは言語の芸術なのだから、新子句も伝記的背景を離れ、もっと言語的面から読み直されるべきだと思う。

さらに、柳本はジェンダー論にまで踏み込んだ。
近代になってジャンルが固定されることで、「任意性」が消えた。これは「男」「女」の固定制にもつながってゆく。
川柳が「任意性」の文芸だとすれば、川柳はジェンダーに敏感だったかもしれない。それなのに、川柳では今までジェンダー批評がおこなわれなかった。川柳が瀬戸夏子に出会うことによってジェンダーを自覚するかもしれない、と言うのだ。
ひょっとして、この柳本の発言は現代川柳がジェンダー論の視点からまともに語られた最初になるかもしれない。

瀬戸夏子は川柳に惹かれる理由を、近代的自我にとらわれない自由さにあると述べた。柳本は「任意性」「テクスト論的逸脱」から現代川柳のさまざまな可能性について語った。
いずれも、今まで川柳の世界の内部からはあまり聞くことのなかった捉え方である。
私は、かつて花田清輝が「前近代を否定的媒介にして近代を超克する」と繰り返し書いていたことを思い出した。レンキスト・浅沼璞の「可能性としての連句」にならって言えば、「可能性としての川柳」ということになるだろうか。
これからも現代川柳が作品や批評の分野で、さまざまな可能性を開拓してゆくことを期待したい。

(付)「触光」52号(編集・発行、野沢省悟)に「第7回高田寄生木賞」が発表されている。佐藤岳俊「現代川柳の開拓者」が受賞。入選は飯島章友「川柳ネタバレ論」小池正博「難解の起源」柳本々々「絵描きとしての時実新子」濱山哲也「川柳珍味 鳴海賢治商店」。次回(2018年1月末締切)も「川柳に関する論文・エッセイ」を募集している。

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