2016年8月26日金曜日

川柳カード12号―筒井祥文と瀬戸夏子に触れて

「川柳カード」12号が発行されて一か月がたつが、これといった反響もない。反響がないのは仕方がないのだが、今号には問題性を含んだ作品や文章が掲載されているので、このまま何も問題にされないまま終わってしまうのも寂しいから、ここであえて取り上げることにする。
問題点はふたつある。ひとつめは同人作品のうち筒井祥文の作品である。筒井の10句をまず引用しておく。

選抜のアホが百人寄ってホイ
凧ゆけば頭の隅に月も出て
端正な鬼語辞典もあるこの世
サバンナの象のうんこよ聞いてくれ
自然薯を育てる脳と暮らしつつ
正体がもしもバレたらコンと鳴く
コロとあれ外れた音とハーモニカ
蚯蚓鳴く天王寺村の水準器
亜補陀羅野湿原通り真っ昼間
アホが百人せせらいで行きよった

一読して気づくように、四句目は穂村弘の有名歌をもとにしている。もとにしているというより穂村の短歌の上の句をそのまま使っている。念のために『シンジケート』から引用しておく。

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい   穂村弘

私は最初、穂村の短歌のパロディかと思った。パロディなら一部を他の言葉に置き換えるはずだが、元歌の上の句が変更なしにそのまま使われている。だから、これはパロディではなくて引用なのだ。
では、祥文はなぜそんなことをしたのだろうか。私はこんなことをしても別におもしろくも何ともないと思っているが、彼は意識的にこれをやったはずだから、何らかの意図があったことになる。本人に聞いてみたわけではないから推測するしかないが、読者のさまざまな受け取り方を作者は期待したのではないだろうか。
まず、これが引用だということに気づかない読者がいると仮定して、おもしろい句を祥文が書いたと読者が誤解する場合。川柳人のなかには短歌や俳句などの他ジャンルの作品を勉強していない人もいるから、もっと短歌も勉強しなさいよと読者をからかっているのだろうかと私はまず考えた。けれども、これほど有名な短歌を知らない読者は、もしいたとしても少数だろう。
次に、穂村の短歌の上の句はこれで立派に川柳じゃないかと祥文が思っているという場合。元歌の一部を勝手にカット・アップしたことになる。
先例がないわけではない。
寺山修司が「チエホフ祭」で短歌研究新人賞を受賞したとき、盗作問題が起こったことはよく知られている。

人を訪はずば自己なき男月見草     中村草田男
向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男   寺山修司

わが天使なるやも知れず寒雀      西東三鬼
わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る 寺山修司

これは俳句を短歌に引きのばしてリミックスした場合だが、寺山が俳句を短歌にリライトしたのなら、オレは短歌を川柳にして発表してやろうと祥文は思ったのかも知れない。
ここで川柳の盗作問題について触れておく。
最近ではあまり耳にしないが、川柳ではときどき盗作問題が起こる。
本歌取りというようなことではなくて、ベタな盗作である。
パロディとか本歌取りというのは立派な文芸上の技法なのであるが、盗作をする人(無意識的な場合を含めて)がいてそれを見抜く選者が少ない以上、川柳でパロディや本歌取りはあまりすべきではないと私は思っている。
さて、祥文の句に戻ると、これだけの有名歌である以上、盗作にはならないと私は思うが、ではこの句の引用がはたして効果的であったかどうかが問われなければならない。
10句のタイトルは「行きよった」となっているが、一句目「アホ」ではじまり10句目「アホ」で終るので統一テーマがあるのだろう。
関西弁で「アホ」というのは相手の人格を否定するのではなくて、やんわりとした揶揄と愛情表現のニュアンスがある。だから関西人は「アホ」と言われても怒らないが、「バカ」と言われると腹を立てる。

サバンナの象のうんこよ聞いてくれ

こんなことを言うのはアホなやつやなあ、というニュアンスで祥文はここに引用したのかもしれない。そういう意味なら効果的といえないこともないが、いずれにせよ、ややこしいことは止めてほしいというのが私の正直な感想である。
(この件については、荻原裕幸と八上桐子がツイッター、ブログで少し触れている)

二つ目の問題点は瀬戸夏子の「ヒエラルキーが存在するなら/としても」という文章についてである。
歌人である瀬戸が川柳という他ジャンルに接したときの感想が率直に書かれている。ベースにあるのは「文芸ジャンルにおいて、ヒエラルキーは存在する」という認識である。「ほとんどの人がうすうすはそう思っていて、それを無視して、あるいはないという前提で話しあっていても埒があかないのではないか」と瀬戸は述べている。

小説―現代詩―短歌/俳句―川柳

というのがそのヒエラルキーである。小説が上位のジャンル、川柳が最下位のジャンルである。
私はこの文章を読んだ川柳人が誤解するのではないかと危惧していた。川柳が最下位のジャンルというのは認めたくない現実である。一部の川柳人が怒り出すのではないかと。
もちろん、瀬戸の文章の真意はそんなところにはない。
作家や詩人が歌人に対して上から目線で接するという体験について瀬戸は語っている。私は瀬戸以外の歌人からも「歌人は詩人から批判され、いじめられる」という話を聞いたことがある。詩人のなかにも優れた詩人もいれば、それほどでもない自称詩人がいるのはどのジャンルでも同じことだ。「ジャンルヒエラルキーが上なだけだろう」と瀬戸は言う。
それでは、上位のジャンルから軽視された表現者が下位のジャンルに接するときには、どのような態度をとるのだろうか。
私の経験では、上位ジャンルから受けた屈辱を下位のジャンルに向かって晴らすような態度をとる人が多い。具体的には歌人・俳人が川柳人に対して軽視する態度をとるということだ。
瀬戸は「正直、川柳や柳人と接するときにどうすればいいのかわからなかった」と書いている。確かに正直な感想である。瀬戸の凄いところは上述のようなヒエラルキー意識をともなった態度を川柳に対して絶対にとりたくないと思っている点だ。そのことが逆に彼女を緊張させていたらしいのだが、いずれお互いに肩の力を抜いたありのままの交流ができるようになればいいなと思っている。
さて、川柳人は瀬戸の文章の真意を読み取ったからか、それとも川柳が下位のジャンルと世間から見られているという認識をそもそも持っていないからか、特段の反応はなかった。私も「上位」「下位」という言い方を便宜上使ったが、必ずしもそれを認めているわけではない。川柳界が閉鎖的なままなら安全無事だが、他ジャンルとオープンに交流しようとする際にはいろいろな問題が生じてくるのだ。
川柳の自虐ネタのひとつに「第二芸術論のときに川柳は何をしていたのか」というのがある。桑原武夫が俳句・短歌を批判・否定したときに、川柳は批判対象に含まれていなかった。川柳は問題にもされていなかったのだ。だから、第二芸術論に対する川柳側の対応というものも当然なかった。無視こそ権威者の対応のなかで最大のものなのである。

2016年8月20日土曜日

川合大祐句集『スロー・リバー』

「明後日、句集が届くことになっているんですよ」
8月はじめ、伊那駅前の喫茶店で話しているときに、川合大祐がそう言った。川合の第一句集『スロー・リバ―』(あざみエージェント)が発行されることは聞いていたが、伊那行に間に合わなかったのが残念でもあり、句集が発行されるまでの数日がいっそう待ち遠しいことでもあった。
その後届いた句集を開くと、期待を裏切らない清新な句集に仕上がっていた。ネットに書きこまれたいくつかの感想を読んでも好評のようだ。「Ⅰ.猫のゆりかご」「Ⅱ.まだ人間じゃない」「Ⅲ.幼年期の終わり」の三章に分かれていて、特に実験的なのは第Ⅰ章である。
実験的でチャレンジ精神にあふれているといっても、それがどのように実験的なのかが問われなければならない。
句集のなかにはこれまで評判になった句もちらほら見られる。たとえば次の句。

中八がそんなに憎いかさあ殺せ   川合大祐

川柳入門書にはよく「五七五の真ん中の七音(中七)が八音(中八)になってはいけない」と書かれている。上五は字余りになっても許容されるが、中七は厳密に守らないといけないというのだ。それは韻律上の理由だろうが、必ずしも明確な根拠が示されているわけではない。川合は「中八の禁」に対して川柳作品のかたちで疑義を提出しているのだ。しかも「そんなに憎いか」と意識的に中八を使っている。ここでは一句が川柳論そのものになっていて、「中八」を語るときにはよく引き合いに出される作品である。

…早送り…二人は…豚になり終
(目を)(ひらけ)(世界は)たぶん(うつくしい)

「川柳カード」誌上大会(「川柳カード」7号、2014年11月)に投句された作品である。前者の兼題は「早い」、後者の兼題は「世界」。
前者はビデオの早送りの画像を表現した句のようだ。映像的であり、スピード感があるなかに皮肉もすこし混ざっていて批評性がある。
後者は(   )を多用している。この(   )にどのような意味があるかは一概に言えないが、たとえば(   )に任意の言葉を代入していると考えてみよう。

(   )(    )(    )たぶん(     )

確定しているのは「たぶん」という語だけであり、 (世界は)という部分は兼題だから置き換えは難しいけれど、他の部分はどのような言葉でも嵌め込むことができる。とくに最後の(うつくしい)という部分は、たとえば(おそろしい)などとすることもできるかもしれないが、これを(うつくしい)としたのは世界に対する肯定的な感覚が作者にあるからだ。その場合でも「たぶん」という保留付きとなる。「目を開け世界はたぶんうつくしい」というある意味で陳腐な言述を(  )を付けて揺さぶることによって一句が成立している。
そもそも、第一章のaには「…は…の…を見るか?」というタイトルが付けられていて、私などはフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を代入して読んでしまう。

「雪に名を与えて言いたかったのは

こうやって宇宙をひとつ閉じてゆく」

第Ⅰ章のc「檻=容器」から。この作品は「週刊俳句」(2016年2月7日)に掲載されたもの。10句連作で、カッコにはじまってカッコで終っている。この二句に挟まれた8句にもそれぞれカッコが使用されている。
ここではカッコ記号として「   」が使われている。「  」が「檻」に見立てられているのだ。「定型」を「檻」と見ることは、単なる機知的表現ではなくて、この作者の実存から来るものだと思う。ルーティンや定型は有用なものである半面、一種の桎梏でもあるからだ。
句集『スロー・リバー』の第Ⅰ章が実験的な印象を与えるのは、句のかたちで「川柳とは何か」を問うものとなっているからだ。「メタ川柳」といっていいかもしれない。

第Ⅱ章に移ろう。ここでは主として固有名詞を使った句が集められている。
中でも「ドラえもん」の句はこれまでも注目されてきた。

二億年後の夕焼けに立つのび太
ドラえもん右半身が青色の

「川柳カード」11号に飯島章友は「川合大祐を読む―ドラえもんは来なかった世代の句―」という文章を書いている。飯島は川合大祐を「第二次ベビーブーム世代」ととらえ「この世代は『ドラえもんは必ず来る』と大人たちから言われ続けたにもかかわらず、『ドラえもんは来なかった』世代なのである」と述べている。
川柳にはドラえもんを詠んだ句がときどき出てくるが、特に川合の場合はキイ・イメージとして読み取ることができる。

さて、句集の第Ⅲ章は「幼年期の終わり」。
おやおや、今度はアーサー・C・クラークなのか。
引用はもうやめておくが、川合大祐句集『スロー・リバー』は新しい世代の川柳を提示しようとする意欲的な句集である。川柳にもようやくニュー・ウェイブがあらわれたのだ。

気をつけろ奴は単なる意味だった   川合大祐

2016年8月5日金曜日

天国へいいえ二階へ行くのです(飯田良祐)

「ユリイカ」8月号の特集「あたらしい短歌、ここにあります」が話題になっている。
「ユリイカ」はかつて(2011年10月)「現代俳句の新しい波」で俳句を取り上げ、そのときも私は書店に買いに走ったが、今度は短歌ということになる。
予想していたものとは少し違っていたが、それなりにおもしろいものだった。
まず、穂村弘と最果タヒの対談がある。
次に「短歌/イラスト」として雪舟えまの10首が掲載。雪舟えまがここにくるのか。
さらに「新作5首」として15人の作品が掲載されている。
ネットなどですでにいろいろ感想が書かれているが、歌人でない人の作品が多く載っている。歌人からは俵万智・斉藤斎藤・瀬戸夏子など、歌人以外の人では戸川純・ミムラ・壇蜜・ルネッサンス吉田などが名前を連ねている。
「あたらしい短歌、ここにあります」と言いながら、どこがあたらしいの?と首をかしげる作品もあって、玉石混淆。知らない人も多く、プロフィールが一切付いていないのは、15人を同一平面上に置いて「短歌」として読めばいいという意図だろうか。「ユリイカ」は短歌誌ではないから、「歌壇」とか「短歌界」などというものはここにはなく、一般読者の視点で編集されているとも言える。
評論は現代短歌の世界でよく名前を見かける人が担当していて、ある意味で順当な感じ。その中で新鮮だったのは、梅﨑実奈の「純粋病者のための韻律」である。梅﨑は書店員だが、短歌や短詩型文学に理解のあるカリスマ店員として知られている。彼女はこんなふうに書いている。

〈「歌集、売れてほしくないんですか」
イベントの打ち上げで同席した歌人にずっと気になっていた疑問をぶつけてみたことがある。ずいぶんぶしつけで失礼な質問だけれど、どうしてもきいてみたかったのだ。歌集というのは売るための仕組みがきちんと整っておらず、実際に現場で扱っている側としては本当のところどう考えているのか知りたかった〉

〈「文学です。どうぞ」と差し出すのでは今、マスは受け取ってくれない。店でも詩歌コーナーに迷い込んでしまって「なにここ、ポエムじゃん」と笑いながら人が立ち去っていく姿を今まで何度も見てきた。そのたび思う。文学じゃ、だめなのか。詩じゃ、だめなのか。ことばそのものじゃ、だめなのか〉

本を売るという現場で日々戦っている人の思いがここには述べられている。

短歌の発信については加藤治郎が「短歌の新しさ」を、荻原裕幸が「インターネットと短歌」を書いている。加藤はツイッター「サイレンと犀」(岡野大嗣の短歌と安福望のイラスト)について、フォロワーが11886人にのぼることを紹介したあと、次のように述べている。

〈短歌雑誌・結社誌は、歌壇のコアである。そことは別のところに短歌の読者がいる。短歌の実作者ではない読者が多いと想定する。その読者層の獲得は、長年のテーマなのである。少なくとも「サイレント犀」は、地滑り的な変動を起こす契機となったのではないか〉

そして加藤は〈「サイレント犀」のようなオープン化に短歌の未来はある〉と言うのだ。
いかに私たちがクローズドな世界の狭い視野のなかで生きているかを改めて意識させられる。

さて、7月30日、大阪・上本町の「たかつガーデン」で「飯田良祐句集を読む集い」が開催された。
良祐は2006年7月29日に亡くなったから、ちょうど没後10年になる。川柳は句会がなければ人が集まらない。ただ作品を読むためだけに川柳人が集まるのは稀有のことである。10年が経過して良祐の作品がどう読まれるのか。
ゲストに岡野大嗣を招いた。良祐とは何の面識もないのに、句集『実朝の首』を購読してくれた純粋読者のひとりである。句集の中からいくつかの句を選んで読みを語ってもらった。
岡野大嗣が選んだのは次の句である。

下駄箱に死因AとBがある
バスルーム玄孫もいつか水死体
ポイントを貯めて桜の枝を折る
母の字は斜体 草餅干からびる
吊り下げてみると大きな父である
百葉箱 家族日誌は発火する
当座預金に振り込めと深層水
言い訳はしないで桶に浮く豆腐
沸点ゼロで羽化 名前のない鳥
きっぱりとことわる白い白い雲

外を歩いているうちに死因が靴の裏に貼りついてくることがある。それを下駄箱という空間に入れておく。死因にはAとBがあるのがおもしろい。
二句目の場所はバスルーム。子孫として「玄孫」が出てくる。そんな未来の時間での死を思い浮かべている。
三句目の作中主体はポイントを貯めるのが嫌いな人なのだろう。持ちたくもないカードをいつの間にか持たされている。ポイントが貯まったらふつうはいいことをするのに、ここでは桜の枝を折るというよくないことをしてしまっている。
正確に再現できていないが、岡野はこんな感じで10句を丁寧に読んでいった。

小池正博は次の5句を選んだ。

パチンコは出ないしリルケ檻の中
ハハシネと打電 針おとすラフマニノフ
二又ソケットに父の永住権
自転車は白塗り 娼婦らの明け方
げそ天のひとり立ち滂沱の薄力粉

固有名詞、父母に対する感情、大阪の雰囲気の三点が指摘された。
良祐が読んだ本そのものかどうかは分からないが、永田耕衣や定金冬二の句集、寺山修司『書を捨てよ、町に出よう』、実朝の『金槐和歌集』、リルケ『マルテの手記』、西脇順三郎『詩学』など、良祐の句に出てくる文学者の本が会場に展示された。
第二部は、くんじろうの司会で参加者ひとりひとりが良祐の思い出や作品について語った。

『実朝の首』は飯田良祐の句集としては不完全なもので、未収録作品の中にもいい句がいくつかある。当日「補遺」として配布されたが、その中から紹介しておく。

天国へいいえ二階へ行くのです
前みつをつかんだのに何故泣いている
うむを言わさない魚屋のゴム長
イージーリスニングな時計屋のオヤジ
何ですかという虫を食べている
イットウォズマイマザー鉢を割っていた
線条痕がある等伯のふすま絵
あてどない春を炒めるゆりかもめ

私たちはもう飯田良祐の新しい作品を読むことができないが、彼の残した作品の読みを深めていくことができる。飯田良祐の川柳がこれからも読み継がれ語り継がれてゆくことを望んでいる。