2016年12月23日金曜日

現代川柳 展望2016年

「現代詩手帖」12月号は「現代詩年鑑2017」となっていて、今年一年を振り返る内容である。短詩型文学については、野口あや子が「変化と欲望の先にあるもの」(短歌展望2016)を、田島健一が「〈他者〉は忙しい」(俳句展望2016)を書いている。
野口は「新鋭短歌シリーズ」などの歌集出版ラッシュに触れながら、短歌の流通の問題を取り上げているようだ。自己表現と流通の関係は微妙だ。流通することで作品は従来の短歌作品の内実とは変質してゆく部分が生じる。作品と商品の関係は従来からも言われてきたことだろう。
田島は俳句のシステムの問題を取り上げているように思われる。俳句甲子園や各種の俳句賞、結社、師弟関係などに触れながら、「他者の承認を受けて立っている作品」と「自律的に立とうとする作品」の区別を問う。それが区別できるかどうかは別として、俳句では作品が作られ人口に膾炙してゆくシステムが重要なのだろう。
では、川柳ではどうか。川柳作品は流通もしないし、作品が一般に普及するシステムも整備されていない。「無名性の文芸」「蕩尽の文芸」であり、そこが川柳の魅力でもあると強がって見せておきたいが、今年、川柳の世界でどのようなことがあったのかを極私的にでも振りかえっておく必要はあるだろう。

まず、今年1月~3月に出た『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳』(ゆまに書房)全三巻は大きな出来事だった。現代川柳作品のアンソロジーは、『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)以後、これといったものがなく、『現代川柳必携』『新現代川柳必携』(三省堂)なども一種のアンソロジーと言えるかもしれないが、句数が多すぎて読者にとっては散漫になる。『大人になるまで~』は短歌・俳句・川柳の三ジャンルが等価に扱われており、鑑賞文も付いているので読みやすい。たとえば、次のような作品が見開き両ページに並んでいるのは刺激的である。

ドラえもんの青を探しにゆきませんか  石田柊馬
君はセカイの外へ帰省し無色の街    福田若之

墓地を出て、一つの音楽へ帰る     中村冨二
夢の世に葱を作りて寂しさよ      永田耕衣

もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい 岡野大嗣
院長があかん言うてる独逸語で     須崎豆秋

アンソロジーだけではなく、単独の川柳句集の発行も盛んになってきた。
兵頭全郎句集『n≠0』、川合大祐句集『スローリバー』、岩田多佳子句集『ステンレスの木』など注目すべき句集が発行されている。

付箋を貼ると雲は雲でない  兵頭全郎
(目を)(ひらけ)(世界は)たぶん(うつくしい) 川合大祐
寝ている水に声を掛けてはいけません   岩田多佳子

半世紀ほど前、山村祐は「句集は墓碑銘ではない」と書いていた。
川柳句集とはひとりの川柳人が生涯に一冊出すもの、という感覚の時代があったのである。
そのことがある意味で川柳の普及を妨げていたところがある。読者層が限定されてしまい、川柳界の外部に広がっていかないからだ。
たとえばミュージシャンはCDを出すことによってデビューする。CDを出さずに、コンサートだけで勝負しているミュージシャンもいるかもしれないが、レコードやCDを出すのは自分の作品を世に問うということなのだ。仲間や友人にだけ作品を披露するのでは世界が広がらない。
かつて石田柊馬は「川柳は読みの時代に入った」と言った。その後しばらくして、私は「読みの時代の次には何が来るでしょうか」と柊馬に訊いたことがある。彼は「句集の時代」と答えたが、それが今や現実になりつつある。

今年は尾藤三柳という現代川柳を牽引してきた大きな存在が亡くなり、ひとつの時代の終焉という感を深くする。終焉は次の時代のはじまりでもあるのだ。

次回は1月6日に更新します。みなさま、よいお年をお迎えください。

0 件のコメント:

コメントを投稿