2016年6月17日金曜日

定金冬二句集『無双』のことなど

5月22日の「第二回現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」では手持ちの川柳句集を展示し、石田柊馬に句集解説をしてもらった。そのとき彼が紹介したなかに『無双』の次の句があった。

橋が長いのでおんなが憎くなる    定金冬二

『無双』では昭和30~39年の章に収められている。
石田はこの句について「おんなは作中主体といっしょに橋を渡っている」「おんなは橋の向うにいる」の二通りの読みが可能で、当時の読者も二つの読みに分かれたことを述べた。(もうひとつ「おんなは橋の手前、作中主体の背後にいる」という可能性もあるが、これはすぐには思いつかないとも)。冬二にどちらかと質問すると、冬二はふふんと笑って答えなかったという。石田は現代川柳にフィクションが導入された時期の句としてこの作品を挙げている。
現代川柳史を考えるときに分かりにくいのは、その作品がいつごろのものかということが、後発の世代には特定するのが困難なことである。特に句会作品となると、資料を探すのは大変だし、句集に収録されている場合でも、句集が発行されるのはかなり後になってからのことが多いので、作品制作の時期とはズレが生じる。
さらに、「昭和30年代」などの区切り方と「1960年代」などの区切り方による混乱もあり、60年代、70年代、80年代…という区切り方でものを考えている私などには時代の雰囲気が分かりづらいところがある。
幸い冬二の句は昭和30年代ということが分かる。昭和30年は1955年、昭和35年が1960年である。ただし、フィクションの導入といっても、従来の書き方と混在しているのであって、たとえば上掲句と同じ時期の冬二の「おんな」の句にはこんなのもある。

おんなとは哀しいときも何か提げ    定金冬二

この時代、買い物は女性の役割だった。哀しいときも大根や人参を入れた買い物かごを提げて歩いてゆくのである。ここには男性の視点でとらえられた「おんな」の姿があり、女性川柳人によって書かれる「私川柳」「情念川柳」にもつながってゆく。

石田柊馬は「私川柳」流行の皮切りとして、時実新子の『新子』(昭和38年、1963年)を挙げている。この時期あたりから、現代川柳は私的感慨や感情表現の比べ合いに表現の中心が置かれるようになり、イメージやフィクション、技法的には暗喩(メタファー)が多用されるようになるというのだ。
「現代川柳ヒストリア」に展示した句集で言えば、福島真澄の『指人形』(昭和40年)には昭和30年代後半(1960年代前半)の作品が収録されている。特に次の句は昭和39年、40年に書かれている。

指人形に静寂(しじま)を吹かせ夫がゐない    福島真澄
風吹けば 失った推体の 山鳩よ啼け

明治以降の近代川柳に「私」が導入されたのは、明治40年代の「主観句」の主張あたりからだと言われている。このとき、若き川上三太郎は客観から主観へ舵を切った一人だったのだが、昭和30年代においても三太郎は「私川柳」の流行に一定の役割を果たした。新子も真澄も三太郎に師事したのである。

その後の1960年代の現代川柳史、特に女性川柳史について私はあまり句集を持っていないし、具体的なことがよく分からない。私が川柳をはじめた1990年代には「川柳の意味性」や「隠喩」についてはすでに疑問も出はじめていて、1970年代・1980年代の現代川柳の遺産をそのまま継承することに行き詰まりも見えていた。私が「時実新子論」に手を出さない理由もそこにある。
現代川柳における「私」の導入の仕方に問題があったとすれば、むしろ批判されるべき対象は河野春三だろうと私は思っていて、「河野春三伝説」(「MANO」19号)を書いた。乗り越えるべき相手は一番高いレベルの相手でないと意味がないからである。
石田柊馬は現代川柳史における「私川柳」は大きな「迂回」だったと言うが、半ば同意しつつも、それは「批判的継承」の対象ではないかと私は思っている。

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