2016年5月6日金曜日

言語ゲームとしての川柳―兵頭全郎の世界

1.私のはそれじゃないです

兵頭全郎の第一句集『n≠0 PROTOTYPE』(私家本工房)が発行された。
タイトルをどう読むのか不明である。あえて読めないようなタイトルにしているのだろう。タイトル自体がすでに「意味」ではなくて「記号」だとアピールしている。
「プロトタイプ」という副題も、最初は言語学や哲学でいう「典型」という意味かと思って、ずいぶん皮肉なタイトルだなという気がしたが、「試作品」という意味だとすると今後量産されるべき作品が第二句集・第三句集というかたちで続いてゆくのかもしれない。
内容は「Singles」「妄読」「Units」「Essey」「Recent Works」の各章に分かれ、「Singles」「妄読」にはそれぞれpart1とpart2がある。
まず「Singles‐part1‐」から何句か紹介しよう。

どうせ煮られるなら視聴者参加型

「どうせ見られるなら」であれば意味が通りやすいが、「煮られるなら」となっている。だからといって「煮られるなら」に深い意味性を探っても、何も出てこない。料理番組などの文脈においてみても、あまりおもしろい読みにはならない。だから、この句はそのまま受け取るほかない。どうせなら視聴者参加型でいこうと呼びかけているのでもない。この句にはどんなアピールも意味もないのだ。

付箋を貼ると雲は雲でない

従来の川柳の書き方だと「付箋を貼ると雲は~になる」という形になる。ここでは「雲でない」とだけ言って「何になるか」を意図的に書いていない。
雲は雲であるはずだが、ある条件のもとでは雲は雲でなくなる。
言葉と物との関係は恣意的である。
条件を変えてみる。即ち、言葉を変えてみる。そうすれば、言葉と言葉の関係性によって、一句はさまざまな姿を見せるだろう。

手は打った。回るものみな博覧会

「手は打った」と「回るものみな博覧会」の間に飛躍がある。どんな手を打ったのか、回るものは博覧会以外にもあるのではないか。いろいろな疑問は無効にされている。読者の読みによってその間隙が埋まるというものでもない。一句として統一的な像を結ばないのだ。ただ無限に循環してゆくばかりである。「手は打った」→「回るものみな博覧会」→「手は打った」→「回るものみな博覧会」→「手は打った」…

流れとはひっきりなしの美少年

「AはBである」という川柳の問答体。
従来は答えの部分に「うがち」や「川柳眼」、「隠喩」や「イメージ」が置かれてきた。
けれども全郎の場合は隠喩でもなさそうだし、イメージだとしても納得できるような像を結びにくい。問答体のスタイルを借りてはいるが、何も問答などしていないのだ。

サクラ咲く時「もっと」って言うんです

「もっと」と言っているのは誰か。「もっと」どうしてほしいのか。他の言葉を言うときもあるのではないか。これらの問いは無効である。
受け入れるしかない断言性。
断言は川柳の書き方のひとつだが、従来の断言性はそこに川柳眼が感じられるものだった。作者独特の強烈な物の見方を表出することによって、読者を納得させてしまう力業があった。この句の場合はそのような強引さは感じられない。そう思わないなら別にかまわないよと言っているかのようだ。

数句読んだだけでも、全郎の川柳は従来の川柳とはずいぶん異質であることが分かる。従来の読みでは読みきれないものが多いのだ。
兵頭は自ら作成した「発刊記念フリペ」でこんなふうに言っている。

「世の中には
面白可笑しいとか
社会風刺や人生を語る
川柳が
たくさんありますが
私のはそれじゃないです」

滑稽とユーモア、諷刺や批評性、私性の表現―そのようなものをこれまで川柳は表現してきた。
けれども、兵頭全郎の川柳は従来の川柳の読み方を無効にする。
それでは、全郎の川柳は何を表現しようとしているのだろうか?

2.書きたいものは何もない

近代文学には自我の表現という面がある。自己表現とか自己表出とか言われる。
短詩型文学においては「私性」という言い方がされる。
「世界」を表現する場合でもそこに「私」のものの見方(川柳眼)が反映されるのだ。
けれども、ここに一人の川柳人が現れて、「私」なんて表現したくないと言い出したら、どのような事態になるだろうか。
全郎の川柳には意味もメッセージも「思い」もない。しかし、モティーフは存在する。
そのことは「連作」―「Unjts」の章を見るとわかりやすい。

美人画の額を湾曲する歌劇
頭蓋骨割る厳格な復元図
具現化と聞くや交互に疑義生ず
群生地 草原は下界の出口
外国語学部に並ぶ矯正具
軍議など芸事そっと午後の雨
月光は毬栗のどこまで探る
行列を擽るごきげんな雅楽
戯画丸く盗む大吟醸の瓶
寓話こそ迎合の待つ向う岸

この連作のタイトルは「濁」である。
「濁」という題詠だろうか。それとも「濁る」というテーマがどこかに隠されているのだろうか。
10句を眺めていると、妙に漢字が多いことに気づく。「濁」とは濁点とか濁音とかいうことかもしれない。たとえば「ガギグゲゴ」の音を多用して10句を作ってみる、というようなルールを課したとする。句頭の二字を漢字にするとか、句末の語をできるだけ漢字にするとか、所与の条件を増やせば作品はいろいろ変化する。
このような読み方で、全郎が仕掛けた言語ゲームをクリアーしたことになるのかどうか分からないが、少なくともやっかいな「心」などの入り込む余地はなさそうだ。
全郎の決定的な新しさは「書きたいことなど何もない」という自己表出衝動の不在にあり、にもかかわらず「川柳を書こう」というモティーフの存在するところにある。
川柳にもポストモダンの表現者が現れたのだ。

へとへとの蝶へとへとの蕾踏む   兵頭全郎

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