2016年3月18日金曜日

神戸の川柳と文学

3月10日は時実新子の命日である。その時期に合わせて「月の子忌 時実新子を読む」というイベントが3月5日、神戸文学館で開催された。主催は八上桐子と妹尾凛の二人による川柳ユニット「月兎(げっと)」。私は行けなかったが、参加者40人ほどでの充実したものだったようだ。神戸新聞NEXT(ネット記事)で当日の様子がうかがえる。
取り上げられたのは第一句集『新子』の時期(1960年~1964年)。
「当時の川柳界は岸本水府や椙元紋太ら『六大家』の時代。男社会の中で、人を恋う心を赤裸々に詠んだ新子川柳は、激しい批判と称賛を受けた」。その一方で「川柳の中では戯画化・女優化が進み、実生活との隔たりが広がっていった」。(八上桐子)
「句の題材にも家族にも、一対一の関係でより深く向き合っていったころ。喜怒哀楽では表現しきれぬ感情を見据えるうち、心の中に孤独を育てていったのだろう」(妹尾凛)
以上は神戸新聞の記事による。
昨年は1955年~1959年の作品が取り上げられていて、年に一度、新子作品の五年分を読み継いでゆくという持続的な計画のようだ。フリーペーパー「Reading新子」Vol.2から。

車輪ゆっくりと花嫁を轢いた      時実新子
向き合って兎のように食べている
切手の位置に切手を貼って狂えない
恋成れり四時には四時の汽車が出る
おそろしい音がする膝抱いており

神戸文学館では「昭和の川柳百人一句」の展示もおこなわれている。私が見にいったのは最終日の3月13日で、現在はもう展示が終わっている。
これは墨作二郎が所蔵していた「昭和の百人一句」を芳賀博子が譲り受け、神戸文学館での展示に至ったものである。「幻の句集」として新聞に紹介され、「船団」108号にも芳賀自身の文章が掲載されている。次の文章は芳賀の解説である。

〈句集が発行されたのは1981年(昭和56)。新潟の「柳都川柳社」主幹、大野風柳が地元の印刷会社の北都印刷(株)とタッグを組み、限定五百部で作った〉
〈まずは氏自身が百人を選考し、自選一句と揮毫を依頼。句には同じく新潟の川柳家にして三彩漆の無形文化財、二代目小野為郎が水彩画を添え、趣深い色紙に仕上げた〉

これが百枚展示されている。
昭和56年時点での現代川柳百人一句として資料価値があり、興味深い。

馬が嘶き花嫁が来て火口が赫い    泉淳夫
転がったとこに住みつく石一つ    大石鶴子
ふるさとを跨いで痩せた虹がたつ   柴田午朗
おもいおもいに元日が明け      下村梵
雪は愛白いまつりが降りてくる    墨作二郎
裏切りや蝶一片の彩となる      寺尾俊平
眼をとじると家鴨が今日も歩いてる  堀豊次
北風よ瞽女の花道だと言うか     水粉千翁

川柳の展示を見たあと、神戸ゆかりの文学者の常設展示を見たが、これが結構おもしろかった。神戸文学館には何度も行っているが、これまできちんと展示を見たことがなかったのだ。
堀辰雄は神戸とは直接関係はないが、竹中郁との交友から取り上げられている。

〈堀君の「旅の絵」という短篇の中の人物は私がモデルである。丁度今から十年前の若い日の私が、あの篇中で生きている。象の皮のような外套を着てベレ帽をかむって、そして、ホテルで下手な英語で交渉する。あの場面をよむと、その間の十ケ年は忽然と消えうせて、堀君も私も二十歳台の物好きな青年になってしまう。あの頃は、何でもかでもが面白くて仕様のない年頃であった。堀君を引っぱって明石の町に隠棲していたイナガキタルホを訪ねたりしたのもあの頃だった〉(竹中郁『消えゆく幻燈』)

イナガキタルホはもちろん稲垣足穂である。
ついでに、竹中郁の描く足穂の姿を紹介する。

〈彼は高等数学を語る。天文学を語る。男色を語る。鉛筆を語る。飛行船を語る。手品を語る。そして、ただ麻痺するためにのみ、滅茶苦茶にわけのわからぬ酒を飲む。そして醒めるとああ又この地球へ逆戻りかといった顔をしている〉

神戸ゆかりの文学者としては、他にも久坂葉子や十一谷義三郎、賀川豊彦、島尾敏雄など、たくさんいて語り尽くせない。

神戸の話題から離れるが、近ごろショックだったのは、ジュンク堂の千日前店が閉店になることである。この本屋さんでは随分調べ物をさせてもらったのに残念だ。
『15歳の短歌・俳句・川柳②生と夢』を買い求めた。
佐藤文香のエッセイ「あなたさえ本気なら」は必読。

靴紐を結ぶべく身を屈めれば全ての場所がスタートライン   山田航
鉄棒に片足かけるとき無敵      なかはられいこ
オネショしたことなどみんな卵とじ  広瀬ちえみ

私のイチオシの木村半文銭の句「紀元前二世紀ごろの咳もする」も収録されている。
次週3月25日の時評はお休みさせていただきます。

0 件のコメント:

コメントを投稿