2016年3月5日土曜日

瀬戸夏子症候群―不要なんだ君や僕の愛憎なんか

短歌の読み方、俳句の読み方、あるいは川柳の読み方というようなものがあるのだろうか。ひとつのジャンルに慣れ親しんでいると、そのジャンルの作品の読み方や書き方に染められてゆくものである。頻繁に繰り返される業界用語や評価基準などが習慣化されて自然に身についてゆく。結果としてジャンルの評価基準は制度化され、初心を失った作者はその基準に合致するような作品を無意識的に再生産してゆくようになる。そしてある日ふと疑問に思うのだ、こんなことでいいのだろうか?―短歌における「詩」、俳句における「詩」、川柳における「詩」が問われるのは、そのような局面においてである。

瀬戸夏子歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』(書肆侃侃房)が上梓された。『そのなかに心臓をつくって住みなさい』につづく待望の第二歌集である。
巻頭ちかく、見開きの左頁に次の四つの選択肢が提示されている。

a. 友達になりたい。
b. 悪かった。おれが謝るよ。
c. 何をきいていてもむかしの恋人とプールのなかにいるようだ。
d. 君はお金持ちなんだね。

これらの選択肢の前頁には次の短歌が置かれている。

片手で星と握手することだ、片足がすっかりコカコーラの瓶のようになって

あなたはどれを選ぶだろう。素直にaだろうか。bくらいがいいんじゃないかな。すこし屈折してcだろうか。dだと俗物と思われはしないか。そもそも、この選択肢は何なんだ?前の短歌に対する選択肢とは全然ちがうのかもしれない。

瀬戸夏子は評価の難しい歌人である。
たとえば『誰にもわからない短歌入門』で三上春海はこんなふうに書いている。

〈「わからない歌」ということでしたら瀬戸さんの歌を外して語ることはできないでしょう。瀬戸さんは斉藤斎藤さんとあわせて現在もっとも「前衛」を体現している歌人だとわたしはおもっているのですが、そのようなひとの歌ですから当然「わからない」。でもすごいんです〉

『桜前線開架宣言』でも山田航は次のようにコメントしている。

〈瀬戸夏子は間違いなく現代短歌のなかでも特に重要な歌人のひとりなのだが、論じるのがきわめて難しい。なぜなら、「一首単位で表記する」という短歌の原則を打ち破るスタイルを取っているため、歌が引用しづらいからだ〉

今度の歌集は一首単位で読めるのだが、論じるのが難しいという点では変わりがない。
「短歌的喩」とか「上の句と下の句の関係性」とか、「韻律のうつくしさ」や「私性」など従来の鑑賞の仕方は瀬戸夏子の作品においてはいったん無効になる。
では、そこには何が表現されているのか。

わたしにかかった秘密のその隙に太陽へ執刀する花はさかりに
緯度を引く気持ちで宝石をたべて悲しむ人々を裏切るように所以を知らせる

瀬戸の短歌を難解にしているのは言葉の出所である。
ふつう、作品の創作過程というものは読んでいて何となく想像がつくものである。
突然出現した言葉であっても、それはその作品の中の別の言葉(連作の場合は隣接する別の短歌やテーマ)を契機として生まれたのだということが、うっすらと理解できたりする。
けれども瀬戸の短歌では、その言葉がどこから飛んできたのかが見えない。
多くの場合は日常的文脈を超越した「意味の関節外し」と捉えたり、補助線を引くことによって「見えない梯子」の在りどころを理解できたりする。けれども、瀬戸の作品はそういうものとも違うようだ。
結局、瀬戸夏子の短歌を読むときは、一行の詩として読むほかはないのである。

それはそれはチューリップの輪姦でした
心臓が売りものとなることをかたときも忘れずに いつかあなたの心臓を奪うだろう

短律と長律。
そういう分け方をすれば、短律は少なく、長律が大部分である。もちろん五七五七七の短歌形式で書かれている作品もある。短歌形式の韻律のさまざまなヴァリエーション。彼女の作品には短歌でありながら詩でもあるというパラドクシカルな魅力がある。
わからないところもあるけれど好きな歌。

再演よあなたにこの世は遠いから間違えて生まれた男の子に祝福を
突風にあなたはくずれて是と答え左手ばかりを性器に変えた
口を出さないでくれこれからのしゃぼん玉のなかにひらく無数の傘よ
おれの新聞をとってくれ りんごはいい りんごは体によくないからな
火星のプリンセスどんどんいなくなってく彼女の髪だけを切りたい
走ってく花のかたちの音楽で本名だなんてはしたないって
僕が行く、僕が行って、僕がはにかむ午前のあいだに現代になる
窓から感情がポテトチップスとして降ってくる 夜というよりも昼
北極の極ならそんなの埼玉の天使と東京の天使で話しあいなよ
晩節を汚すためにもそばにいてくれ他は正式な最後通告

「私は無罪で死刑になりたい」というタイトルの章について。
「罪なくして配所の月を見る」という言葉がある。罪人ではなく風流人として流刑地の月を見たいというのだろう。瀬戸は「流刑」ではもの足りなくて過激に「死刑」という言葉を使う。風流貴族の寝言など蹴とばす勢いである。

いいきかせて天国のほうへ不要なんだ君や僕の愛憎なんか
恋よりももっと次第に飢えていくきみはどんな遺書より素敵だ
きっときみから花の香りがしてくるだろう新幹線を滅ぼすころに

これらの歌は比較的分かりやすい。別に心配することもないのだが、瀬戸夏子の読者にとっての「愛唱歌」になる危険性があるかもしれない。瀬戸が読者を意識して書いているとは思えないが、頻出する「あなた」や「きみ」は誰を想定しているのだろう。

瀬戸夏子の『かわいい海とかわいくない海 end.』を読んで言えるのはただひとつ。この歌集を読んだあとで他の歌人の歌を読むと、それらがひどく甘ったるいものに感じられてしまうということだ。どうやら瀬戸夏子症候群に罹患してしまったようだ。

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