2015年9月4日金曜日

川柳は「卑屈」なのか

7月4日に青森の「おかじょうき川柳社」主催による「川柳ステーション」が開催された。トークセッションのテーマは「川柳の弱点」。ゲストは歌人の荻原裕幸である。
荻原はツイッター(7月7日)で次のように書いている。

おかじょうき川柳社の大会「川柳ステーション」のため、数日、青森に滞在していた。大会選者をつとめ、トークセッションに出演。相方&司会は、おかじょうきの、Sinさん。「川柳の弱点」と題されたトークは、表現論を背景にした、場の問題として展開。毒のない口調で毒のある話をしてしまったかも。

「毒のある話」というからどんなトークがなされたのか気になっていたが、「おかじょうき」8月号でその詳細を読むことができた。確かに「毒のある話」で、その中には特定の川柳人に対する個人攻撃も含まれている。
荻原は川柳の外部から川柳のあり方についての批判を続けており、これまで私は彼の提言を貴重なものと受け止めてきた。しかし、今回のトークには納得できないところが多いので、彼の発言の内容を検討してみることにしたい。

2001年4月15日にホテル・アウィーナ大阪で開催された「川柳ジャンクション」で荻原は「川柳には自己規定がない」という発言をして大きな波紋を呼んだ。その発言の真意をSinが質問している。まず、発言の態度・姿勢に問題がある(以下、Oは荻原、SはSinの発言)。

O 真意というか、本当に正にそのとおりなんですが、特に何が言いたかったかというと、ここで喋っていいかどうか難しいところですけど(笑)
S 大丈夫です。ここは居酒屋ですから(笑)
O じゃ居酒屋っていうことで、壁に向かってお話をさせていただきますが(笑)

私たちは居酒屋で人の悪口を言うこともあるし、不満をぶつけることもある。「居酒屋談義」である。けれども、それを活字化して雑誌のかたちで流布させるのは、まったく次元の異なる責任をともなう行為となる。では、その内容は?

O のちにバックストロークのメンバーになったような方たちというのは作句風が全く違うにもかかわらず、川柳と名のつくものを否定するということを常に避けているような感じが僕にはあったんですよね。例えば古くからある結社の方々と、詩性川柳というふうな呼ばれ方をされるような作品に影響を受けた人たちって、そうそう接点があるわけじゃないはずなんですけれども、互いにというか否定しあわないですよね。お互いの存在を認めている。もっと言うと、新聞に投稿している、それもどこかの結社にいる人たちじゃなくてたまたま新聞の社会面の時事川柳かなんかに投稿する作品、それからもっと言えばコンテストですね、サラリーマン川柳も、あれも川柳ですと言い切るんですね。

誰かを批判しようとするときには、その批判対象が明確でなくてはならない。「のちにバックストロークのメンバーになったような方たち」とは誰のことを指しているのだろう。石部明だろうか、石田柊馬、樋口由紀子だろうか。私は寡聞にしてこの三人が「サラリーマン川柳」を認める発言をしているのを聞いたことがない。どのジャンルにも先端的な部分とそうでない部分とがあるが、短歌では本当に互いを認めあわない、相手を「短歌ではない」と否定し合っているのだろうか。「新聞短歌」は短歌ではないと歌壇の人は公言しているのだろうか。

O ただ、サラリーマン川柳がいいとか悪いとかいう問題ではなくて、ジャンル内の小さなジャンルですよね、あれごと肯定しておいてですね、で、何だか色々難解な句を普段ご自身は書いてるわけですよね、それが両方成り立つような理屈というのは恐らくちょっと難しいんじゃないかと思うんです。だから、本当を言えば、ちゃんと認めてないのに、あれも川柳ですよってものすごく取り込みたがるその感じが川柳自体を分からなくしているというか、その人の川柳観を分からなくするので、そういう意味で川柳の人は自分たちが何をやっているのかという語り方が下手なんじゃないかなってふうに思ったんですよ。

ここに荻原の川柳観が表われている。「サラリーマン川柳」「時事川柳」などの属性川柳に対してもっと強く自信をもって「文芸的川柳」をアピールするべきだというのだろう。「ジャンル内ジャンル」については俳句・短歌・川柳でそれぞれの事情があるが、ジャンル内ジャンルを認めるか否定するかは発信の場や状況によるのであって、創作の現場においてはもちろん自分の信じる作品を書くだろうが、啓蒙的文章やジャンル全体を見渡すような文章においては、多様なジャンル内作品のすぐれた作品を取り上げるのが普通だろう。
正直言って「自己規定」発言について今さら蒸し返したくはないのだが、荻原が自ら「真意」なるものを語った以上、当時の発言を確認せざるを得ない。「川柳ジャンクション2001」のテープ起こしをしたプリントが手元にあるので参照すると、荻原の発言は次のようなものであった。

O 川柳の場所をそんなにたくさん見ているわけではありませんが、自己規定ということにおそらくジャンルそのものがあまり関心をもてないんですかね。へたなのか関心がないのかわかりませんけれども。これが外から見ていてすごく気になるところで、それが川柳の特性なのか、作品一辺倒というところがある。
川柳のように、ジャンルとしての自己規定がなされないとどういうことが起きるか。ひとつは、作品がいくら元気でも、歴史とか流れのなかでひとつのかたまりとして見えてこない。たしかにあるということはみんなわかっていても、ジャンルとしての意識がとても希薄になっているように見えるんですよね。川柳の人たちに川柳って何ですかと訊いたときに、そんな質問を受けること自体が意外だというような反応が返ってくる。

このときの荻原は「ジャンルとしての自己規定」を語っており、今回のトークでは「ジャンル内ジャンル」にシフトしている。「自己規定」の内容が微妙に変化しているように私には感じられる。
Sinは「短歌ヴァーサス」に触れて、次のように発言している。

S 僕の前後どちらかに書かれてましたけど、あの樋口由紀子さんですら、他のジャンルに負けていられないみたいな気負った文章を書いてるんですよ。昨日の会話の中でも「樋口由紀子さんは何であんなに卑屈なんだろう」という話を荻原さんもしてましたけど。

他人を批判する場合は、自らも傷つくことを覚悟で、自らの責任で批判するのが本当だろう。Sinが荻原の名を借りて、荻原の陰に隠れるようなかたちで、樋口について批判的な言葉を述べているのはフェアではない。
念のため「短歌ヴァーサス」7号の樋口の文章「立体的と平面的」を読み直してみた。樋口は塚本邦雄が亡くなったことに触れて、こんなふうに書いている。

川柳には塚本邦雄が存在しなかった。「隣の花は赤い」ではないが、彼のような先達を生まなかった土壌、育たなかった環境を思った。

短歌と比べて川柳には塚本邦雄のような大きな存在が生まれなかったと嘆くことは「卑屈」なことであろうか。
Sinの発言を受けて荻原の発言が続く。

O 個人名なので、目の前にいると喋りやすいんですけどね(笑)、卑屈ってとこだけが一人歩きすると非常に大変なので、要はあれだけ立派な仕事をしているのにそこから考えると何故卑屈に見えるような態度をとるんだろうと、そういうニュアンスですね。作品をご自身の川柳観に従って書いているわけで、いい作品書かれてますし、いい句集まとめられてるのですけども、川柳のこと語るときに、さっきの自己規定の話じゃないですけどね、やっぱり自分が本当のところいいと思うものが何かよく分らなくなるような全方位肯定的な文章を見かけるものですから、どうしてもそんな印象を受けたということですよね。

私の疑問は「全方位肯定的な文章」は「卑屈」なのかということと、そのような文章を樋口がいつどこで書いているのかということである。私は樋口の書く文章をすべて肯定するわけではないし、彼女の文章に弱点や不満を感じることもある。けれども、それを批判するときには批判の根拠を明確に示すだろうし、「卑屈」というような人格否定的な言葉は使わないだろう。
荻原は一方で樋口の仕事を評価しているから、この程度の発言は許容範囲だと思ったのだろう。川柳人は人がいいので、川柳のために言いにくいことをよく言ってくれたと好意的に受け止める向きがあるかもしれない。荻原は好きな作家として真っ先に樋口の名を挙げている。けれども、最も代表的な川柳人が「卑屈」だとしたら、それは川柳が「卑屈」だというのと同じである。
私は荻原の「居酒屋談義」レベルでの発言を残念に思うし、荻原発言を誘導し追随したSinに不信感を持つ。
「バックストロークin名古屋」(2011年9月)ではパネラーに荻原を招いた。「バックストローク」36号では、そのシンポジウムに「川柳が文芸になるとき」というタイトルを付けている。このタイトルは荻原の提言を受けて私が付けたものであって、「文芸としての川柳」を確立することは私を含めた多くの川柳人の願いである。それはなかなかうまくゆかず、他ジャンルに対する川柳側の説明責任が不十分だったとしても、私たちが「卑屈」であったことは一度もない。
名古屋でのシンポジウムの最後で荻原はこんなことを言っている。

O 今日は十年前にしゃべったことが引っ張られてきたので大変でしたが(笑)、次は十年後の2021年にぜひ呼んでいただきたいと思います。

「バックストローク」はすでに存在しないが、いつか再び荻原と公の場で語り合う機会が来るかもしれない。私はその機会を楽しみにしている。そのとき現代川柳はどのような状況になっているだろうか。

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