2015年5月3日日曜日

強権に確執をかもす志

連休でゆっくりしているうちに、短詩型の世界ではいろいろなことがどんどん進んでゆく。
特に俳句の動きが活発だ。
「文学界」5月号の巻頭表現は佐藤文香の「夏の末裔」10句。写真は安藤瑠美。(一か月近く前に発行されていたのに、いまごろになって気づいた。)

みずうみの氷るすべてがそのからだ   佐藤文香
間奏や夏を養ふ左心房
冷房や唾液をはじく耳朶の産毛

「オルガン」1号が発行されて話題になっている。生駒大祐・田島健一・鴇田智哉・宮本佳世乃の四人の同人誌。同人による対談「佐藤文香の『君に目があり見開かれ』を読んでみた」が掲載されている。

春暁をしばし冷たき雲の空      生駒大祐
鶴は手を欲しがっているくすぐる手  田島健一
しわしわの淵へと波の消えゆけり   鴇田智哉
風船に入る空気のちとぎくしやく   宮本佳世乃

「蝶」213号の特集『たむらちせい全句集』。伊丹啓子がこんなふうに書いている。
〈たむらちせいの作品には読者が解釈するにあたって難解なものが間間ある。が、それらの句はいわゆる「コトバ派」の俳人たちの難解句とは方向性が異なるように思う。なぜなら、ちせいの句の基底には初期の頃より培われてきたリアリズムが存在する。そして、リアリズムを踏まえたうえで独特の幻想性を加味しているからである〉
宮﨑玲奈の「赤黄男に贈る詩」も興味深く読んだ。

寒椿詠まねばすべて無なりけり    たむらちせい
雪女陸軍伍長の墓を抱く       森武司

「豈」57号、招待作家として金原まさ子の50句が掲載されていておもしろいが、「豈」についてはまた別の機会に。
『冬野虹作品集成』全三巻。ゆっくりと読みたい。

作品をまとめて残してゆく作業、新しい同人誌のスタートなど、いろいろな動きがあって目が離せない。同人誌はさまざまな表現者の組み合わせによって、新鮮な活動が期待できる。川柳でも数名の同人によるユニットが複数できて、それぞれの表現世界を追求してゆくような状況が生まれるとよいのにと思っている。

川柳では「ノエマ・ノエシス」29号、高鶴礼子の巻頭作品「総員情報機器化症候群」に注目した。「症候群」に「シンドローム」のルビが付いている。初出は詩誌「飛揚」59号、特集「機械」のゲスト作品ということだ。それに新たな二句を加え、「見田宗介先生に捧ぐ」という献辞が添えられている。

工程を踏めば図太くなる舌禍

「機械」というテーマだが、そこに現代社会に対する批評的な意味が込められている。「舌禍」というのだから、ことは「言論の自由」にかかわっているだろう。
工程を踏めば大きな制作物も可能になる。同時に負の一面も巨大化するのだ。

擬制いえ規制 ザムザは虫になる

「擬制」と「規制」。「自己規制」という言葉もある。社会全体が規制の方向に動いている。
カフカの「変身」はかつて不条理文学として読まれたが、いまは「ひきこもり文学」として読まれることもある。この句では「不条理」の方の意味が強いようだ。
「特定秘密保護法」のことなどが思い浮かぶ。

起動音 織機の下のキリギリス

織機の起動音とキリギリスの鳴き声とだったら、言うまでもなく起動音の方が優勢だ。けれどもキリギリスの鳴き声を聞き取る耳を失いたくないところだ。

整然と仮象の桃は腐らない

バーチャルの桃は映像の世界の中で腐らない。
情報化社会。マトリックスの海。

置換されたいか深層社会学

見田宗介はたしか社会学者だった。
大澤真幸・宮台真司などが見田ゼミの出身だという。
深層心理学はよく耳にするが、深層社会学というものがあるのだろうか。

ギシギシとネジのネジレはまだ癒えぬ

部品を止めているネジには大きな負荷がかかっている。
「銀河鉄道999」というアニメでは機械の星を支えるネジは人間からできている。
心あるネジたちは機械の星を破壊するために、自らバラバラになるという結末だった。
あの映画ではまだロマン主義が生きていた。

メガバイト ナンジシンミンハゲムベシ

情報操作と権力との関係。
情報量の大きさの陰で権力は行使されているのだろうか。

追投下 領有するという疎外

「追投下」には「リ・ツイート」のルビ。
国境と領有権の問題。

餓死しないボクと見つめるボクの餓死

かつて「飢えた子の前で文学は有効か」ということが言われた時代があった。
栄養失調の子どもたちがじっと私たちを見つめているというイメージだろう。

組織論なんて牧歌をうたうなよ

権力に対する対抗組織もいまは力をもたない。
ここでは「牧歌」だと一刀両断されている。

符号ゆえゼンノウ 瓊瓊杵尊モ、ワ、タ、クシモ

「瓊瓊杵尊」には「カミ」というルビ。
ニニギノミコトは天孫降臨神話に登場する天孫だから、ここでは天皇制がテーマとなっているのだ。
「ワ、タ、クシ」とは誰だろう。

跨ぐなと合わせ鏡の中の死者

戦後70年。
「戦争は絶対にしてはいけない」と発言する人も次々と世を去ってゆく。
現在が昭和十年代と似ているとしたら、無気味なことである。
今回の高鶴の作品に現代川柳ではすでに珍しくなった社会性を感じたので、私なりの感想を書き留めてみた。石川啄木が「時代閉塞の現状」の中で述べ、のちに大江健三郎が敷衍した「強権に確執をかもす志」という言葉が思い出された。

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