2015年2月27日金曜日

飯田良祐のいる二月

お白粉をつけて教授の鰊蕎麦   飯田良祐(以下、同じ)

「白粉」「教授」「鰊蕎麦」、いずれも日常にある物や人である。別に異常なものではない。
けれども、この三つの単語を繋ぎあわせると、そこには尋常でない光景が浮かび上がる。
白粉をつけているのは教授だろう。女性の教授とも考えられるが、男性教授が白粉をしていると読んだ方がおもしろい。男でも化粧をすることはあって、たとえばニュースキャスターは男性であってもテレビ映りのために薄化粧をすることがあるらしい。この場合は職業目的であるが、この句の教授は何のために化粧しているのだろう。
しかも、その教授が鰊蕎麦を食べている。
「お白粉をつけた教授が」ではなくて、「お白粉をつけて」で少し切れる。作者の視線はまず白粉に向けられている。川柳では食べ物などの日常的なものをよく取り合わせる。良祐の句にも「大福餅」「串カツ」「クラッカー」などの食べ物が出てくる。衣食住は生活詩としての川柳には不可欠の素材であって、しばしば使われる。
人は白粉をつけ化粧することで日常とは次元の異なる世界にヴァージョン・アップする。それなのに、鰊蕎麦という日常次元にダウンしてしまう。その落差が何となくおかしい。

ビニール袋の中のカサカサの勃起

そんなものをビニール袋の中へ入れられても困る。ノーマルな恋愛関係であれば、カサカサのとは言わないだろう。スーパーで買い物をすると、商品をビニール袋に入れて持ち帰る。水漏れしないように、水分が逃げないように、品物は包みこまれる。冷蔵庫に入れる場合はラップをかけて保存する。みずみずしい状態に鮮度が保たれる。けれども、この句の場合は乾いている。ドライである。欲望はある。けれども、その欲望が人間的なつながりに結びついてゆかない。欲望は恋人たちを結びつけたり、欲望の結果、子どもが産まれたりする。欲望自体には良いも悪いもなく、ある意味で生の原動力かもしれない。その欲望さえ本物かどうか、疑わしい。避妊具のなかで、欲望は痛ましいまま宙吊りになっているのだ。

公定歩合にさしこんでみたプラグ

現実に生きる人間として、経済問題は重要である。金利とか円高・円安とか年金とか。人はパンのために生きるものにあらず、とは言いながら、生活できなければ文芸もなにもない。ヒト・モノ・情報・カネ。同じように暮らしているつもりでも、運・不運によって経済的格差が生まれたりする。情報を人より先に握っただけで、巨万の富を得たりする世の中である。良祐は自分の事務所をもっていたから、部下たちの生活のことも考えなければならなかった。状況に翻弄されながら、ふとプラグでも差し込んでやろうか、という怒りが生まれる。火花でも散るだろうか。何の影響もないだろうか。人生設計をむちゃくちゃにした者たちに一矢報いることができるだろうか。

庭のない少年からの速達便

「庭のない少年」とは何だろう。アパートなどに住んでいて住まいに庭をもたない少年だろうか。そういうふうに読んでもいいが、川柳の意味性ということを考えると、この庭は内面的なものであるように思えてくる。
庭には植木や花々や野菜などが植えられていて、水やりや手入れが大変であるが、ちょっとした食材を栽培する実利的な役割のほかに、土をいじったり花を育てたりすることで気分転換や安らぎを得ることもできる。その人の庭がある精神の状態を表しているととらえると、たとえば箱庭療法では、箱庭の中にいろいろな玩具を並べることによってカウンセリングの一助になったりする。禅寺の枯山水になると石や砂が象徴的な意味をもったりする。
さて、「庭のない少年」から速達が届いた。いったいどう返事をすればよいのだろうか。速達だから、緊急性を要する内容かもしれない。こちらも「庭のない大人」であって、適切なアドヴァイスなんてできるはずがないのである。

ほうれん草炒めがほしい餓鬼草紙

「地獄草紙」や「餓鬼草紙」などの絵巻や断簡がある。「地獄草紙」には糞尿地獄など、往生要集に書かれているような、様々な地獄が登場する。「病草紙」というのもある。たとえば、不眠症の女。みんなが眠りこけている深夜、ひとり目ざめている女の顔は不安に満ちている。餓鬼は修羅など六道のひとつである。水を飲もうとして泉に触れると、水は火となって、餓鬼は永遠の渇きに苦しめられる。餓鬼草紙を見ながらふとホウレンソウが食べたくなったのだろうか。あまり食欲がわく状況とも思えない。「ほうれん草炒めがほしい」のは作者であり、餓鬼ではない。しかし、何となく餓鬼が「ほうれん草炒めがほしい」と言っているような感じもする。自分も一匹の餓鬼であり、ほうれんそう炒めとビールがあればしばしの憩いの時間がもてるかも知れない。ふと垣間見せた良祐のやさしさだろう。

母死ねとうるさき月と酌み交わす

母は憎悪の対象であろうか。
娘と母との関係において、娘が母を憎むことはエレクトラ・コンプレックスと呼ばれている。逆に、息子が母を愛するのがエディプス・コンプレックスのはずだが、良祐の句では母への憎悪が詠まれている。
寺山はつ著『母の螢』という本がある。はつは寺山修司の母である。寺山が写真集を出すというので、母をモデルにした。
「何で私なの。お化けの写真集でも作るの?」
「まあ、似たようなものなんだけど…」
というので、京王ホテルで撮影する。「ここでは半分喧嘩でした。脱がされたり、塗りたくられたり、いい玩具にされた感じでした」とはつは書いている。
写真集が出来上がる。グロテスクな写真がいろいろあって、「ぼくの母は、若い男と駆け落ちをして…」などまことしやかに書いてあった。もちろん虚構である。
母が激怒するのを、修司はポカンと見ていたという。

自転車は白塗り 娼婦らの明け方

まだ二十代のころ、難波から天王寺まで深夜の街を歩いたことがある。
もう何も覚えてはいないが、それなりに鬱屈した気持があったのだろう。
難波のジャズ喫茶を出たあと、知らない道をずんずん歩いていった。天王寺公園の近くまで来たころ、闇の中にそれほど若くもない女が立っていて、目があった。女は私に呼びかけた。
「おにいさん…」
街娼であった。
この句では「自転車は白塗り」と言っているが、白塗りなのは娼婦だろう。明け方の空が黒からブルーに変ろうとするころ、娼婦たちは何を思っているのだろうか。
ちなみに「朝日劇場」連作は初出では次の十句になっている。「男娼が大外刈りの串カツ屋」という句が私はけっこう気に入っている。

自転車は白塗り 娼婦らの明け方
ガニマタでポテトサラダが座る席
半券は揉みしだかれて歌謡ショー
八宝菜二百円也酒の穴
男娼が大外刈りの串カツ屋
稲刈りが始まる通天閣展望台
友情や梅焼はいつも生煮え
作務衣脱ぎすて 尿(しし)臭い猫
病い犬明日は大安ジャンジャン町
ビリケンの頭 南瓜は鬱王

大福をかぶり貞操帯はずし

「かぶる」とは「かぶりつく」(食いつく)という意味である。
大福餅にかぶりつくのは男であろうか、女であろうか。
餅を食べながら貞操帯を外す。外すのはもちろん貞操帯を付けたのとは別人である。貞操帯を取り付けたものと貞操帯を外したもの、これも別人であろう。
澁澤龍彦の本で読んだような気がするが、貞操帯には鍵がついていて、旅行に出かける夫はその鍵をもったまま出かけて行く。難儀なことである。
この句の人物はどうやって貞操帯をはずしたのであろうか。別に私が心配することはないのだが、それほどきちんとした貞操帯ではなかったのだろう。
大福餅は食べないといけないし、貞操帯も外さなければならないとなると、いそがしいことである。食欲と性欲をパラレルに捉えている。

斜め右に木耳ラーメンは淫靡

「木の耳」と書いて「きくらげ」とは考えて見ればおもしろい命名である。
ラーメンにはいろいろなものが入っていて、たとえば「ナルト」は鳴門の渦潮から来ている。ここでは斜め右に木耳が入っていた。
この「斜め右」という位置が微妙である。「斜め下」でもなく、「中央」でもない。少し位置をずらしたところに木耳がある。
このラーメンを作者は「淫靡」と言い切った。ある種の川柳は、ひとつの断言である。なぜそう言えるのかという根拠は示されない。作者が淫靡だと感じた。別の感じ方、捉え方はもちろんありうる。従来の川柳では、読者の共感を得られるような普遍性に基づいた書き方がされることが多かった。もちろん、それは一つの書き方であるが、普遍性はなくても作者の独自な感性を言い切る書き方も成立する。問題はそのような断言が一句の中で効果的に働いているどうか、ということである。
そう考えるとき、「斜め右」という位置が有効に働いてくる。「木耳」の「耳」という文字も何やら意味ありげに見えてくるのだ。

張り込みの途中で確定申告

こういうことは現実にはありえない。
けれども、実際にあればおもしろいなと思う。
職務怠慢なのだけれど、そう目くじらを立てるには及ばない。
松本清張の短編に「張り込み」というのがある。
指名手配の男が昔関係のあった女のところに立ち寄るのではないかと、二人の刑事が張り込みをしている。女は吝嗇な夫のもとで窮屈な生活をしている。その生活ぶりを刑事は見つめている。もし、指名手配の男がやって来たら、女はどのような行動に出るのか。
清張は社会派だが、良祐の句はそんな深刻なものではない。少しでもお金が戻ってきたら居酒屋にでも行けるだろう。

夢が人生を食い破ることもあれば、現実が文学を殺すこともある。だが、私は良祐が死んだとは思っていない。疑うものは飯田良祐句集を見ればよい。

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