2015年1月23日金曜日

ほぼむほん論

蘆花・徳冨健次郎に有名な「謀反論」がある。
明治44年2月1日、旧制一高で行なった準公開講演である。大逆事件で幸徳秋水ら12名の処刑が行なわれた8日後のことだった。
「実に思いがけなく今明治四十四年の劈頭において、我々は早くもここに十二名の謀反人を殺すこととなった。ただ一週間前の事である」(岩波文庫『謀反論』)
蘆花は幸徳秋水たちとは立場を異にすると述べつつも、「諸君、幸徳君らは時の政府に謀反人と見做されて殺された。諸君、謀反を恐れてはならぬ。謀反人を恐れてはならぬ。自ら謀反人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である」と語りかける。
「我々は生きねばならぬ、生きるために常に謀反しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して」

川柳カード叢書の第一巻として、昨年九月に『ほぼむほん』が刊行された。きゅういちの第一句集である。
私が解説を書いたことでもあり、今まであえて取り上げなかったが、感想・書評も出尽くしたようなので、このあたりでふり返ってみたい。
いったい川柳の句集が出ても、私信はともかくとして、川柳人から書評・感想が公表されることは少ない。いきおい外部の、たとえば俳人からの視線をリサーチすることになる。

まず、西村麒麟による感想から(2014-09-22 きりんの部屋)。

FAX受信ヴォっと膨らむ冷蔵庫 

〈 これ好きですね。ヴォッて感じがなんかよくわかる。〉

バッティングフォームがとても浄土宗

〈 これも大好き。なんかわかるし笑ってしまう。この「なんだか面白い」のすごく奇妙で良いものがたくさん詰まっているのがこの句集です。〉

〈 〉内が麒麟さんの感想。こんな感じで句が取り上げられている。全部紹介できないのが残念である。

次に、大井恒行のブログから(「大井恒行の日日彼是」2014年9月23日)。

遠雷や全ては奇より孵化した    きゅういち

〈上掲の句について小池正博は解説で「『孵化』は昆虫や鳥の場合に使う。ヒトが生まれるにしても、鳥獣虫魚と同じ相で眺められている。『奇』はマイナス・イメージではない。すべての起動力は『奇』にあるという認識である」と述べる。その結びには「司祭かの虚空にバックドロップか」の句を引いて「きゅういちという覆面レスラーは虚空に言葉のバックドロップを仕掛ける。その技はときに掛け損なうこともあるが、見事に決まる場合は心地よい。観客はそれを楽しめばいいのだ」と記している。
楽しみついでに気が付いたことだが、最近の『鹿首』第6号の「鹿首 招待席 川柳」に「無題」と題してきゅういちが20句を寄稿している。以下に数句挙げておこう。

歩道より最上階へさざ波さざ波
教室の装置としてのうわごと
連綿も手の湿り気も握り寿司
又貸しの魂魄がほら水浸し

言葉使いの自由さにおいては、俳句よりもどうやら自由度、想像力の幅が大きいようである。
『ほぼむほん』は「ほぼ」と記すからにはどうやら「謀反」には至らない「むほん」なのだろう。〉

川柳人からの感想もある。瀧村小奈生はこんなふうに(「そらいろの空」2014年9月22日)。

幾何学の都市に破調を連れまわす    きゅういち

〈おや?と思う素敵な表紙の本が届いた。「ほぼむほん」え?なんだかかわいい響きである。「ほぼ謀反」に変換するまでの一瞬が楽しい。何に対する謀反なのだろう。社会?時代?運命?もちろんそういう要素がないわけではないと思うが、それら全部をひっくるめた自分の存在そのものに対する「ほぼむほん」のような気がしてならない。だから謀反は永遠に続く。ずうっと。きゅういちさんは、謀反的な行為として書き続けていくということなのじゃないかなあと思った。掲出句も存在に対する自意識をうかがわせる。ビルが林立する街中に立つと、まっすぐで平行な線が空間に並び立っている。たとえば、交差点で信号待ちをしている人の存在は、ちいさな破調だろう。無機質の中の有機質。圧倒的なものとあやういもの。完全と不完全。その「破調」を「連れまわす」自覚が、さわやかでたくましく感じられた。〉

ネット上にはこのほかにもいくつか感想が出ているが、句集名の「ほぼ」に触れているものが多い。「謀反」と断言してしまうことへの羞恥が作者に「ほぼむほん」と言わせているのだろう。解説で私は宮沢賢治の「やまなし」の連想から「くらんぼん」説を唱えてみたが、当っているかどうか怪しい。
「むほん」と「ほぼむほん」のはざまに、きゅういちの川柳は存在するのだろう。

「川柳カード」7号に榊陽子が書評を書いている。
〈 あの日きゅうちゃんに質問した。「何に対して謀反なん?世の中?川柳?」「・・・自分にかなあ。」きゅうちゃんはほぼかっこいい。〉

句集を出したあと、自分自身のためのブックレビューを作っておくことは必要である。
第一句集を出したあと、次の句集を出すまでには一層の創作の苦しみがつきまとうものだが、この句集には、きゅういちの初心があり、そういう句集をもつ川柳人は幸福なのである。

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