2015年1月2日金曜日

榎本冬一郎と藤井冨美子

『藤井冨美子全句集』(文学の森)が刊行された。
藤井は俳誌「群蜂」の主宰。榎本冬一郎を師と仰ぎ、榎本が亡くなったあと「群蜂」を継承した。全句集には『海映』『氏の神』『花びら清し』『木の国抄』の四句集のほか〈『木の国抄』以後〉の句も収録されている。和田悟朗の序、「藤井冨美子鑑賞」として樋口由紀子・丸山巧・楠本義雄の文章、堀本吟の「藤井冨美子論」が添えられている。
樋口はこんなふうに書いている。
「関西には津田清子、藤井冨美子、八木三日女などの穏やかであるが、芯が一本通った女性俳人がいる。事象をしっかりと見据える彼女らは総じてカッコイイ。根っこが太く深く、誰にも媚びず、女であることに甘えない。同性として、同じ関西人として憧れの誇らしい存在である」
関西女性俳人としては、もうひとり澁谷道を挙げるべきだろう。八木三日女は惜しくも昨年2月に亡くなった。

かつて「社会性俳句」というものがあった。
初期の藤井もその影響を受けている。第一句集『海映』(うみはえ)から。

寒土で一本酸素ボンベの仮死つづく  藤井冨美子
冷え極む鋼材巡視の人影濃し
団交や平炉を囲む荒き霧
官憲へも降るメーデーの紙吹雪
鋼塊積みし汽笛南風に負けるなよ
雷鳴の工区瞬時がみなぎれり

昭和30年ごろの句である。このとき作者は住友金属に在職。
『海映』の解説で川崎三郎は次のように書いている。
「どの作品にもみられる『炉工』や『鉄』など用語の生硬な語感は藤井氏の特徴の一つといってしかるべきであろう。しかし、このような組織と人間への衝迫はかなりアクチュアルな指向をもってとらえられてはいるが、それは現象的なイデオロギーや革命などとは少しく違っているといえよう。藤井氏にとっては、製鋼煙に被われた底辺層で生きる人間の個としての存在の把握が精一杯の作業だったのであり、それと同時に、そういう階層に対する社会的な自覚、連帯感を基調にして、終始リアリズムの方法で迫るという、徹底した自己形成をはかっていたのである」
川崎は冨美子の今後について、社会性から更に内面的な深化への方向性を予見していた。「さりげなく、それでいて容赦なく過ぎ去っていく平板な日常の時間の流れの中から、いかにクライシス(危機感)を感受するか」というところに川崎は詩の本質を見ている。
以後の藤井冨美子はほぼ川崎のいうような軌跡をたどったと思われる。

藤井を語るには榎本冬一郎のことを語らなければならない。
榎本は和歌山県の田辺市で生まれた。近くに南方熊楠の家があったという。
生駒に転居したり、生地の田辺に戻ったりしたあと、大阪へ。いろいろ生活の苦労があったようだ。山口誓子に師事し、「天狼」創刊に同人参加。その一年後に高橋力らと「群蜂」を創刊して主宰となる。
冬一郎の第二句集『鋳造』(ちゅうぞう)には山口誓子の序が収録されている。
誓子はまず「こんどの句集の『鋳造』という題名は、冬一郎氏が俳句によって自己の人間像を打ち建てることを云うのであろう」と書いている。では、どこにそれを打ち建てるのか。「庶民の中に」というのが冬一郎の答えだ、と誓子は言う。
「庶民の中に自己の人間像を打ち建てるというのは、単に自己の周囲の庶民を素材とすることではない。庶民の心を吾が心とし、吾が心を庶民の心とすることである。『私たち』を『私』として詠い、『私』を『私たち』として詠うことである。これは俳句に於ける新しい分野である。ただしかし、自己を見つむる短詩型の詩歌にあっては、究極に於ては『私』を詠うのであるから、その『私』をどのように『私たち』にかかわらせ、からませるかが問題として残る」
誓子は冬一郎の俳句を「難渋なる『庶民性の俳句』」と呼び、「詠う面に於て庶民性があっても、伝わる面に於ては庶民性が欠ける。庶民を詠って庶民から離れることになる」と批評している。誓子自身は「私は、俳句はまず個人が詠えなくてはならないと思う。その上で庶民を詠い、更に社会を詠うべきであると思う。個人が詠えなくてどうして庶民や社会が詠えようか」という立場のようである。
「社会性俳句」の時期における「私」と「私たち」との関係をめぐる議論である。今の眼から見ても興味深いものを感じるので紹介してみた。

拳銃を帯びし身に触れ穂絮とぶ   榎本冬一郎

「拳銃」は単なる素材ではない。
冬一郎は警官であった。昭和16年から昭和30年まで、彼は大阪府警に勤務し、その後大阪府立大学に出向した。冬一郎の社会性俳句として有名なものにメーデー俳句がある。

メーデーの明日へ怒れるごとく訣る
メーデーの中やうしなふおのれの顔
メーデーのあとなお昼や白き広場

最後の句集『根の祖國』の解説で松井牧歌は次のように書いている。
「冬一郎のメーデー作品は、警官の立場から、いや民主警察の警察官が一人の詩人に立ち返って、メーデーの群集に包囲されつつ表出した臨場感あふれる作品であった。しかし、メーデーという労働者の祭典に、警察官は職務上、労働者と対峙して臨まざるを得ない。この孤独と寂寥の渦中で警察官の心情を詠いあげたのが、冬一郎のメーデー俳句である」
評価は二分されている。
「新しい社会性俳句の出現」という評価と「労働者の祭典を単に敵視した立場で捉えているにすぎない」という批判である。
次の句は第四句集『尻無河畔』から。

定時断水犬も女も乳房重し

これも松井牧歌の解説から引用する。
「大阪湾にそそぐ尻無川流域に、戦前から沖縄の人たちの集落があった。河畔に屑鉄撰場、炭焼窯、解船場が並び、内湾沿いに貯木場、その背後はベニヤ工場と馬小屋が連なっていた。デルタ地帯の中央部を見ると、ラワン材が何本も浮かぶ貯木池と粗末な製材工場のたたずまいがあった」
集落をたずねた瞬間から冬一郎は気持ちをひかれ、以後いくたびも訪問したという。

昭和40年代以降、冬一郎は『時の軸』『故郷仏』『根の祖國』と土俗的な世界へ回帰してゆく。アクチュアリティは失われ、そのぶん言葉と物との関係が深化してゆく。
「夥しいコトバによって隔てられている『ものたち』に、できるだけ親密に皮接して、そこから逆にコトバを捉えようとした」(『時の軸』あとがき)

このような冬一郎の俳句の軌跡を受け継ぎながら、藤井冨美子は自らの俳句世界を詠み続けてきたのだ。『木の国抄』のあとがきに曰く。
「この句集は、全ての肉親と永別した日からの私の心を写す鏡となった。身がまえて生きる方法よりも、ひょっとしたら、淡々と歩むなかで自分の心の置きどころが見えてくるのではないか、と気づかせてくれた年月でもあった。けれん味なく暮しぶりを見究めてゆくことの大切さを教えられたといえる」「そして、先師榎本冬一郎の文学性に追いつく道でもあろう」

和歌山市の加太には「流し雛」で有名な淡嶋神社がある。1989年6月、群蜂40周年記念大会で神社の境内に冬一郎の句碑を建立した際に、冨美子は次の句を詠んでいる。師弟の句を並べて紹介しよう。

明るさに顔耐えている流し雛    冬一郎
ふふむ花芯にこもれる怒濤かな   冨美子

私は本来このような師弟関係をキモチワルイと感じる人間である。けれども、冬一郎と冨美子に限っては、そこに文学的な継承の在り方を認めることができる。両者のベースには関西前衛俳句の精神があるからだ。
「戦後三十年を経ても、人間の生命を奪った戦時体験は忘れよう筈はありません」(藤井冨美子『海映』あとがき)

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