2014年5月9日金曜日

芝不器男俳句新人賞と小高賢追悼

第4回芝不器男俳句新人賞を曾根毅(そね・つよし)が受賞した。
曾根とは以前「北の句会」でよく顔をあわせたが、最近では「儒艮」(編集発行・久保純夫)で彼の作品に接する機会がある。
角川「俳句」5月号の「現代俳句時評」で田中亜美が同賞について取り上げている。受賞作は東日本大震災を詠んでいて、選考の際に賛否両論があったようだ。

桐一葉ここにもマイクロシーベルト    曾根毅

この句はもちろん虚子のパロディだが、当時、曾根は仙台にいたから、机上の句ではなくて実体験である。2012年11月17日に京都の知恩院で開催された現俳協青年部のシンポジウムで、曾根は指名を受けて会場から震災体験について発言した。このシンポジウムの中で最も良質の部分であった。
曾根は鈴木六林男の晩年の弟子である。六林男のカバン持ちをしながら、俳句についてのさまざまな話を聞き取っている。師弟の濃密なコミュニケーションがあったと田中の時評では述べられている。時評のタイトルにもなっているが、田中は六林男の言葉を引用しながら、次のように書いている。「敢然として進め」

「現代詩手帳」5月号では青木亮人が「クプラス」創刊号のことを取り上げている。「クプラス」は川柳人にも何人かの読者がいて、先月のこのコーナーでも紹介した。
青木は近代俳句の研究者で、昨年刊行された『その眼、俳人につき』(邑書林)は評判になったし、俳誌「翔臨」にも「批評家たちの『写生』」を連載している。
連句界との関係で言うと、青木は先日、4月29日に松山で開催された俵口連句大会で「室町時代の連歌」の講演をしている。

「里」5月号では上田信治の「成分表」の連載が百回を迎えている。
「成分表」にはファンが多いが、今回は百回記念として、佐藤文香の「信治さんへの手紙」がついている。

短歌誌に目を移すと、「歌壇」5月号は「追悼・小高賢」を掲載。
小高賢は2月11日に急逝した。69歳だった。
追悼文の中では特に吉川宏志の「公共性への夢」を紹介しておきたい。
吉川は「社会詠論争」のことから話をはじめている。
2007年2月4日にハートピア京都で「いま、社会詠は」というシンポジウムが開催された。パネラーは小高賢(かりん)、大辻隆弘(未来)、吉川宏志(塔)、司会は松村正直(塔)であった。その記録は主催者の青磁社から『いま、社会詠は』として刊行されている。
その時は小高の発言を観客席から聞いていたが、その後、私は一度だけ小高賢と話す機会があった。2009年11月15日の「井泉」5周年記念大会のときだった。小高の講演は「穂村弘の歌のどこがおもしろいかわからない」「これからは老人文芸としての短歌に可能性がある」などの小高の持論を展開するものだった。
そのときのご縁で「川柳カード」を送っていたが、川柳のことはどう受け止めていただいただろう。
前掲の吉川の文章に、「いま、社会詠は」での小高の発言が引用されている。

小高 人間はずっと愚かなままで続くわけですか?僕はそう思いたくないし、僕らが歌をつくる場合に、もちろん愚かだけれど、その愚かさからちょっとぐらいはよくなりたい。ちょっとぐらいは認識をかえたい。あるいは歌をつくるわれわれが、もう少し歌というものを考えるという思いがある。
大辻 だから進歩主義だっていうんです。
小高 もちろん、私は進歩主義です。

小高のラストメッセージと言うべき文章が「批評の不在」(角川「短歌年鑑」平成26年度版)である。そこにはこんなふうに書かれている。

「批評には外部が必要だ。つまり、外側から対象を見直すという視線である。短歌だけでなく、他の文学と比べたらどうなるか。同じような問題が、戦前の歌壇ではなかっただろうか。そういう行為は想像力といってもいいし、公共性の自覚といってもいい」

小高賢の短歌を二首紹介しておく。

いくたびも「それはちがう」を飲みこみて副大臣のように生きるか   小高賢
居直りをきみは厭えど組織では居直る覚悟なければ負ける

「現代短歌」5月号の特集は「山崎方代生誕百年」。
久しぶりに方代の歌集『左右口』『こおろぎ』(短歌新聞社)を読み返してみた。

埋没の精神ですよゆったりと糸瓜は蔓にぶらさがりおる      山崎方代
手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る
わたくしの六十年の年月を撫でまわしたが何もなかった
こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり
そこだけが黄昏れていて一本の指が歩いてゆくではないか
生れは甲州鶯宿峠に立っているなんじゃもんじゃの股からですよ

好きな歌を挙げてゆけばきりがない。
川柳誌についても書くつもりだったが、次週に。

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