2013年11月8日金曜日

解らないけれどおもしろい

「川柳木馬」138号(2013・秋)の「木馬座鑑賞」、堺利彦が8ページにわたって作品評〈解らないけれど「面白い」〉を書いている。
堺は「解るけれどつまらない」「解らないけれど面白い」の二つを対比しながら、「木馬座」(同人作品)を取り上げてゆく。たとえば次のように(それぞれ、上の句が解る句、下の句が面白い句である)。

ふる里の仁淀ブルーが湧いてくる    河添一葉
海底のワカメになっていくわたし

「清流で有名な仁淀川の透明なブルーは、きっと素晴らしいのでしょうね。そのお気持ちはよく解りますが、その事実以上の広がりは残念ながら僕には湧いてきません」
「前掲句に引き替え、この句はとても〈面白い〉持ち味が出ています。かつての明治期の新傾向川柳の〈眼のない魚となり海の底へとも思ふ 中島紫痴郎〉のような深刻な捉え方を軽やかに超えて、現代人の〈浮遊感〉が見事なまでに表現されていると感心しました」

目くばせの果ては唇セロテープ     桑名知華子
鬼灯になるピーマンの計画書

「〈喩〉を駆使した表現は、これまで川柳が開拓した貴重な財産ですが、もう一味、味付けをする工夫を重ねるとまた別の相貌が表れてきて面白みが増すのではないかと思われます」
「ひそかに『鬼灯』になってやるぞという目論見は、誰にも知られないような自分一人のひそかなプランを温めているわけですが、その『計画書』の中身が読み手にとってあれこれと想像する楽しみが残されていて、ついついひとり笑いしてしまうのです」

堺の文章を私なりに敷衍すると、句評の基準には次の4パターンがあることになる。

①解るけれどつまらない
②解っておもしろい
③解らなくてつまらない
④解らないけれどおもしろい

ここで問題となるのは①と②の差、③と④の差はどこにあるのかということである。
もちろんこれには〈読者側の問題〉があるだろう。
〈解る〉〈解らない〉という範囲は読者によって異なる。誰にでも解る句というものがあるかも知れないが、川柳が十七音の形式である以上、ある種の省略がおこなわれるのは避けられないことであり、使われている言葉や素材に対する理解も読者の経験や年齢によって異なる。また、川柳作品を読み慣れている読者と、一般的に文芸を愛好している読者とでは受け止め方が違うことも考えられる。ここではそういう問題は保留にして一般的に考えてみたい。

まず、①と②について検討してみよう。
①はどのような句なのかについて、堺は「説明句」(単なる説明に終始している句)、「報告句」(事実や情景の報告だけで終わっている句)、「道句」(倫理臭がぷんぷんしている句)、「新鮮味のない文体の句」などを挙げている。
これまで川柳は〈一読明快〉などと言われ、誰にでもよく意味が分かるように作るべきだと言われてきた。けれども、それは〈解ること〉が自己目的なのではなくて、何を解るか・どのように解るかということが問題なのだろう。
もうタイトルは忘れてしまったが、チェーホフの短編に次のような人物が登場する。彼の言うことは誰でも知っていることばかりで、独自の意見とか新しい見方などは何一つ言わないので、周囲の人間はうんざりして、彼の言葉に耳を傾けようとしないのである。
よく解るけれど退屈な川柳を読むたびに私はチェーホフの短編を思い出し、こんなふうに心の中で呟くことにしている。

「雨の降る日は天気が悪い」

それでは、②解っておもしろいというのはどのような場合だろうか。
「ふらすこてん」30号に筒井祥文が『番傘一万句集』より抜粋をしている。たとえば、次のような作品である。

ネット裏打ちたいような球がくる    天明
ボクサーになれと育てた親はなし    散二
大阪をまだ歩く気の登山服       波濤
びわ湖からモロコ一匹釣りあげる    散二
日帰りの客を見おろす泊り客      黙平
主人が世話になりましてと憎み合い   純生
たとえばのたとえからして腹がたち   狂雨
素人に貸すのこぎりはないという    甲馬
内科でもかまうものかと担ぎ込み    由紀彦
6俵を321と積み上げる       日本村

これらの句は現在読んでも私にはおもしろく感じられる。
ユーモアであったり、川柳眼を感じさせたり、ほんのちょっとしたプラスαなのだけれど、これはおもしろいと感じさせる何かがこれらの句にはある。「平明で深みのある句」とは川柳の理想だろうが、「深み」というより「浅み」とでも言うべき、深刻にならないおもしろさがあるように感じる。
ただ微妙なのは所謂「あるある句」である。
うん、そんなことがあるあると納得するような句は「膝ポン川柳」と呼ばれる。
①のレベルの句を②だと受け取ってしまうことはしばしばあるので、読みや選句能力を鍛えてゆくことが必要となる。

最後に③と④の違いについて検討してみよう。
堺が④「解らないけど面白い」の例として挙げているのが次の句である。「 」は堺の句評である。

遠近法 どきどきしてると線になる    高橋由美

「今回のテーマ『解らないけど面白い』にぴったりの句。どこが『面白い』のかということは、なかなかうまく説明はできませんが、『どきどきしてると線になる』という表現が、この句全体の一句が、不安感を抱え込んでいる現実の生活と密着感があって、言外に立ち上がってくる一つの物語を表徴していると思うのです」

おばあさんがこねこねすると面子が揃う  内田万貴

「今号の『解らないけど面白い』のテーマの最後を飾るのに会い相応しい内田万貴さんの句です」

さて、③「解らなくてつまらない」と④「解らないけどおもしろい」の違いはどこにあるのだろうか。これが最大の難問であって、このような問いを立ててしまったことを正直に言って私は後悔している。
ただ、読み手の心理から言えば、句を読むときのスピードが多少これに関係しているかも知れない。
①「解るけれどつまらない句」に対して読者は即座につまらない句として読み捨てる。
②「解っておもしろい句」に対して読者は即座におもしろい句として印象にとどめる。
「解らない句」に対して読者はその句の前で「立ち止まる」。その句には何かがあるのかもしれないが、さしあたり自分には解らない。読者はこれまでのさまざまな読句経験に照らしあわせて、その句についてあらゆる角度からアプローチを試みるだろう。けれども、ついにその句が自分にとって無縁なものと感じられるとき③「解らなくてつまらない句」となり、何らかの魅力を感じるとき④「解らないけれどおもしろい句」となる。とりあえず、そんなふうに言っておこう。

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