2013年8月16日金曜日

川柳の「新しさ」について

酷暑である。
昨年のこの時期は『怖い俳句』(倉阪鬼一郎著)を取り上げて納涼をこころみたが、今回は川柳諸誌のサーフィンをしてみたい。

「川柳木馬」137号に堺利彦が〈「新しさ」を求めて〉という文章を書いている。「詩歌梁山泊」主催の第3回シンポジウム(4月14日)の懇親会で、堺は次のように語ったという。
「さきほどのシンポジュウムで取り上げられた詩・短歌・俳句の中で、その良さというものがこれまでの文芸批評でもって説明できるものは、どうも、その作品自体が古いのではないかと感じられてならないのです。作品の良さがこれまでの批評理論でもってうまく説明できないもの、それが新しさというものではないかと思うのですが、そういったものに最近は、強く魅かれるようになりました」
堺の言うように作品の良さが既成の説明で言いあらわせるような作品は新しいとは言えない。絵画で言えば、印象派が最初に登場したときは世間から罵倒されたのであり、ピカソの作品はそのパワーによって絵画の領域を広げたのである。批評言語が作品に追いつくまでには時間がかかることが多い。
では、「新しさ」(特に川柳における「新しさ」)とはどういうものなのだろうか。堺は「これまでの川柳の文体(構造)とはちょっと違ったもの」「これまでのように一句の中で見事に完結しているのとは違って『未了性』に満ちた『読者』に具体的なその解釈が預けられた句」などを挙げている。

堺とは別の文脈であるが、「MANO」18号に掲載の「現代川柳の方法」で小池正博は「この川柳にはお手本がない」という木村半文銭の言葉を引用している。大正末年から昭和初年にかけて全国に広まった新興川柳運動は、既成川柳とは一線を画するムーブメントだったが、いわばお手本のない、未来へ向かってこれから生まれていく川柳であった。小池はこれを発展途上にある現代川柳の状況と重ねあわせている。

しかし、そのような「川柳における新しさ」を実作の場で実現してゆくのは容易なことではない。
7月7日に開催された第64回「玉野市民川柳大会」の句会報から、特選作品を抜き出してみよう。

しなやかな指に出口を塞がれる     豊福地佳平
残されたかかしはグラスファイバー製  兵頭全郎
やんわりとルージュゆっくりと惑星   山本ひさゑ
ブレイクショットから木星が動かない  兵頭全郎
キリンの首をゆっくり降りてくる寓話  前田芙已代
セレンゲティの夕陽を忘れないキリン  安原博
そろそろを胸の谷間に泳がせる     丸山進
伝言板は倉庫へそろそろは丘へ     兵頭全郎
青信号話を軽くしてしまう       山本ひさゑ

これらの作品が一定水準の完成度をもっているのは確かである。しかし、「新しい」だろうか。どこかで見たような内容、すでに使われ尽くした文体、現代川柳に親しんでいる者であれば誰にでも可能な発想などによって作られているのではないだろうか。もちろん「新しさ」だけが作品の価値ではない。既成の手法をもちいて完成度の高い作品をつくることが悪いはずはない。私の言っているのは、批評言語が追いつけないほどの驚異がこれらの作品にはあまり感じられないということだ。玉野には私も毎年参加しているから、これは自戒をこめて言うのである。

「水脈」34号に浪越靖政が「川柳の可能性(2)」を書いている。
「ササキサンを軽くあやしてから眠る」(榊陽子)については、このブログでも取り上げたことがあるが、浪越はこの句を含めたいくつかの句についての反響をまとめている。
また昨年6月の「川柳ステーション」大会(おかじょうき川柳社)と昨年9月の「川柳カード」創刊記念大会の特選句を紹介しているが、その中では「川柳ステーション」の次の句が新鮮だと言えるのではないか。

Re:Re:Re:Re:Re:胸には刃物らしきもの   守田啓子

「触光」 (編集・発行:野沢省悟) 33号では清水かおりが「高田寄生木賞とリアリティ」を寄稿している。清水は第3回寄生木賞の「寝たきりのゆうこにも毎月生理」(神野きっこ)などの句を取り上げ、「川柳に詠まれる『現実』について」「作品と現実の関係」「事象を自己通過させて言葉に乗せる難しさ」などに言及している。

こうして川柳諸誌を見てくると、従来の川柳において弱点とされてきた「批評」の分野が徐々に立ち上がってきているように思われる。作品は作品だけの力によって普及していくというのは一種のロマン主義であって、実際は批評によるバックアップによって人口に膾炙してゆく場合が多い。作品は繰り返し語られることが必要なのだ。その際、作者にとって不本意な語られかたをすることもあるだろうが、それも含めて作品は他者によって読まれなければ何にもならない(「だから誰にでも分かるような川柳を書くべきだ」というような考え方に私は賛成しない)。短詩型文学において「読み」は何らかのかたちで作者に反映してゆくものなのだろう。

「週刊俳句」(8月11日)の「週俳7月の俳句を読む」のコーナーに、きゅういちが書いている。「ぺぺ女」という人の句が気に入ったようだ。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/08/7_11.html

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