2013年2月23日土曜日

実朝の首

右大臣・源実朝には人の心をうつものがある。
万葉調の歌人としてアララギ派から高く評価され、鎌倉幕府の悲劇の三代将軍として作家たちにしばしば取り上げられている。文学に興味をもつ人で、実朝に無関心な人は少ないだろう。最近『金槐和歌集』を読む機会があって、私はこの歌人に改めて関心をもった。四季の歌より雑の部に秀歌が多いようだ。

世の中は常にもがもな渚こぐ海人の小舟の綱手かなしも
空や海うみや空とも見えわかぬ霞も波も立ちみちにつつ
箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
ほのほのみ虚空にみてる阿鼻地獄行へもなしといふもはかなし
神といひ佛といふも世の中の人の心のほかのものかは
時により過ぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ

「箱根路を」の歌には「箱根の山をうち出でて見れば波のよる小島あり、供の者に此うらの名は知るやと尋ねしかば、伊豆のうみとなむ申すと答侍りしをききて」という詞書がある。実朝が見た「沖の小島」は熱海の沖に浮かんでいる初島だと言われている。
小林秀雄の『無常ということ』の中に「実朝」の一編がある。小林はこの歌についてこんなふうに言う。
「この所謂万葉調と言われる有名な歌を、僕は大変悲しい歌と読む。実朝研究家達は、この歌が二所詣の途次、詠まれたものと推定している。恐らく推定は正しいであろう。彼が箱根権現に何を祈って来た帰りなのか、僕には詞書にさえ、彼の孤独が感じられる。悲しい心には、歌は悲しい調べを伝えるのだろうか」
『モオツァルト』で「疾走する悲しみ」を表現したのと同じように、孤独な悲しみをかかえた実朝像を小林は描いている。
『吾妻鏡』によると、実朝は暗殺される当日、自らの髪をひとすじ近習に与え、「出ていなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな」という歌を詠んだことになっている。即ち、彼は自分の死を予感し、覚悟していたのである。
小林は次のように書いている。
「広元は知っていたという。義時も知っていたという。では、何故『吾妻鏡』の編者は実朝自身さへ自分の死をはっきり知っていたと書かねばならなかったのか。そればかりではない。今日の死を予知した天才歌人の詠には似付かぬ月並みな歌とは言え、ともかく一首の和歌さえ、何故、案出しなければならなかったか。実朝の死には、恐らく、彼等の心を深く動かすものがあったのである」
広元は大江広元、義時は北条義時(実朝暗殺の黒幕と言われる)である。

小林秀雄の「無常ということ」の同時期に、太宰治は「右大臣実朝」を書いている。
これも、よく知られている作品で、作中の実朝の科白、
「明るさは滅びの姿であろうか。人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ」
「何事も十年です。あとは、余生と言ってよい」
などの言葉は文学を志す人間が一度は通過するものであった。
「男は苦悩によって太ります。やつれるのは、女性の苦悩です」
などという決め科白もある。
戦時下の日本には奇妙な明るさがあった、と言う人がいる。
平家は明るい、と実朝が言うとき、太宰は戦時下の日本と平家の亡びの姿とを重ねあわせたのである。

太宰の実朝像には日本浪漫派の匂いがするが、1970年代になって小林・太宰を超克する実朝論が登場した。吉本隆明の『源実朝』(日本詩人選12、筑摩書房)である。小林や太宰の作品に触れながら、吉本は自らの実朝観を述べている。「実朝的なもの」「制度としての実朝」という見方である。
吉本は「実朝的なもの」の中で
「頼家や実朝の将軍職をささえたのは母北条政子の庇護と、鎌倉幕府という〈制度〉の不可避性であるといってよい。幕府という〈制度〉が必要であるかぎり、頼家や実朝は必要であった。北条氏をはじめ宿将たちは、それぞれ武力を背景として実質的には全国を支配するだけの合戦力をもっていたかもしれないが、すくなくとも鎌倉幕府の創立期には、幕府という〈制度〉と、京都にある律令王権とを、どう関係づけるかについてまったく無智であり、また、かんがえもおよばなかったからである」
と述べている。実朝がもっていたのは「武門勢力の総祭祀権」と「京都の律令朝廷にたいする重しとしての役割」であった。「もし実朝が殺害されることがあるとすれば、このふたつの役割が、まったく武門勢力にとって無意味になったときである。歴史はまさにちょうどそのときに、公暁をかりて実朝を暗殺させたといってよい」
鶴ケ岡八幡宮の祭儀と仏儀は実朝が主宰していたのであり、伊豆・箱根権現への度重なる参詣もここから理解できる。

ここで実朝の二所詣での歌を『金槐和歌集』から引用しておこう。「二所詣で」とは箱根権現と伊豆走湯権現への参詣をいう。

「二所へ詣でたりし還向に春雨のいたく降れりしかば」
春雨にうちそぼちつつ足曳の山路ゆくらむ山人やたれ
春雨はいたくな降りそ旅人の道行衣ぬれもこそすれ
「同詣で下向後朝にさぶらひども見えざりしかば」
旅をゆきし跡の宿守おれおれにわたくしあれや今朝はまだこぬ

折から春雨が降っていた。実朝は道行く人や同行の家人たちが雨に濡れるのを気づかっているのである。また、鎌倉に帰ったあと、近習の武士たちが朝に参上してこないことを怒るのではなく、留守のあいだにそれぞれの個人的な用事があったのでやって来れないのだろうと家人の立場を思いやっている。実朝の優しい性格がうかがえる。
次に、伊豆・走湯権現参詣の歌。

「走湯山参詣の時」
わたつ海の中に向ひていづる湯のいづのお山とむべもいひけり
走湯の神とはむべぞいひけらし早き験(しるし)のあればなるべし
伊豆の國や山の南に出る湯のはやきは神の験なりけり

伊豆山神社は父・北条時政に頼朝との結婚を反対された政子がひそかに頼朝と逢った場所として知られている。源氏挙兵の後ろ盾にもなったので、鎌倉幕府にとっては重要な神社である。いまはパワースポットが流行していて、箱根神社も伊豆山神社も観光ガイドによく取り上げられている。
実朝は宋に渡ろうとして、大船の建造を命じたが、船は海に浮かばなかった。このエピソードもよく取り上げられる。

最後に、実朝暗殺について触れておかなければならない。
『吾妻鏡』によれば、実朝を暗殺したあと、公暁は実朝の首をもち、後見人である備中阿闍梨の邸に行き、膳にむかって食事するあいだも実朝の首を手から離さなかった。使者を三浦義村に送って「いまや私が将軍である」と申し入れたところ、義村は「お迎えの武者をさしむける」と称して、北条義時とはかって討手を差し向け、公暁は討ち取られたのである。

経済産業省へ実朝の首持参する    飯田良祐

川柳人・飯田良祐の句である。
この句では実朝の首を経済産業省に持ってゆく。
実朝の首を持ってゆけば、その手柄で出世が見込めるのであろうか。
経済産業省こそ実朝暗殺の黒幕なのであろうか。
持ち込まれた経済産業省も困っただろう。
天才歌人を死に至らしめたのは鎌倉幕府という〈制度〉であった。
経済産業省に「実朝の首」を持参することは、文芸を死に追いやるものに対する抗議である。飯田良祐の、時代に対する精一杯の嫌がらせであったといまは思う。

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