2013年1月11日金曜日

俳句の句会と川柳の句会

「川柳カード」創刊記念大会のとき、池田澄子・樋口由紀子の対談で次のようなやり取りがあった。

池田 私が句会へ行くときには「これは絶対大丈夫」という句は持っていかないんです。自分はいいと思うけれども案外ダメかもしれないとか、こういうことを言いたいけれども人はそう読んでくれるだろうかとかいうことを聞きたいために句会へ行くの。
樋口 川柳人なら句会には一番良い句を出しますね。

俳句の句会のことをよく知らない川柳人には、なぜ「良い句」を出さないのかと不審に思った向きもあるかもしれないが、ここには俳句の句会と川柳の句会の違いが端的に表れている。

俳句の句会について、私が利用している入門書は古舘曹人著『句会入門』(角川選書)である。古舘は「俳句入門三原則」として「素直に心を開いて聴くこと」「絶えず俳句に感動すること」を挙げたあと、次のように言う。

「三つ目は、俳句を詠む以上に俳句を読むこと。俳句という文学が他の文学と違う点は、詠むことと読むことが一つであることである。俳句を作ることは“今日は!”と他人に挨拶すること、俳句を読むことは他人の挨拶を受けること。従って、俳句は作り手(作者)と読み手(選者)が常に対面しているのである」

古舘は「創作と選句が表裏一体」「選句をしない人は俳人ではない」「選句の拙い人は作句も拙い」「他人への関心の薄い人は俳句に不適」などと述べている。
また、「句会の歴史」についてはこんなふうに。

「正岡子規が句会の作法を知ったのは、明治25年の暮のことで、伊藤松宇の椎の友句会に招かれたときである。子規が驚いたのは、この句会では宗匠を立てず、座中の人が互いに選ぶという互選方式を採用していたことである。当時宗匠達の運座は一人もしくは二、三人の宗匠を定めて、すべて宗匠に選を託したのが通例であった。子規は当時神格化された芭蕉の偶像を破壊して、宗匠の権威主義に痛罵を浴びせたり、子規自ら『先生』の敬称を禁じて、おのれの権威を否定した人物であった」

古舘は子規の互選句会を「ノン・リーダー方式」と呼んでいる。
伊藤松宇の「椎の友社」は明治24年1月に結成され、互選句会を始めた。俳句革新を目ざす子規はこれを踏襲し、根岸の子規庵では「膝回し」と称して探題式互選方式の句会を開いていたようだ。

さらに古舘のいう「句会作法十三か条」を見てみよう。「句会は十人以下で」「多彩なメンバーで」「句会は月二回」「句会は三時間」「投句は十句」「吟行が最上」「句会は選句の場」「互選の点数は優劣に無関係」「討論は結論を求めない」「ノン・リーダーで」「句会は自立の場」などである。古舘の独自の基準もあるようだが、印象に残ったのは次のような言葉である。
「選句の基準は常に最も高度に保ち、しかも選句はできるだけ多く取る。人により、句会により、時によって、選句のレベルを上下するなどもっての外である」
「下手な人は下手な句しか選句しない」
「俳句の鑑賞とか批評とか言われるものの中に、解釈と鑑賞の区別をしっかりしなければならないことである」「解釈を曖昧にして次の鑑賞に入ると混乱するばかりか、誤った鑑賞に導くからである」
「句会は作家の自立の場である。句会の連衆の心を鏡にしておのれを知ることは、師弟関係から自立することである。句会に権威を持ち込まないのは、あくまで自立する作家の誕生に必要なことだからである」

俳句の句会が現実にこの通りだとは思わないが、理想形として目指しているところはよく分る。
一方、川柳の句会はどのようになっているだろうか。
川柳句会の問題点を考えるには、尾藤三柳著『選者考』(葉文館出版)が便利である。選者制度のはじまりについて尾藤は次のように述べている。

「特定されない複数の選者が随時選句を務めるという、いわゆる任意選者制が一般的になるのは、江戸期では概ね文化初頭から、新川柳では明治39年前後からである」

一人の宗匠(選者)にそれ以外の全員が投句するという万句合の形式が崩れて、小単位に分散した句会が多くなった文化年代の初めから任意の選者が登場し、それ以後の句に質的低下をもたらした、と尾藤は言う。「選者の任意性と、その力量不足が、選句のバラつきと低下に結びつくのは、句会システムの免れ難い側面といえる」
川柳における選者システムの成立について、もう少し歴史的経緯を見ていこう。

「新川柳の句会は、明治37年6月5日に阪井久良岐邸で第一回が催されたが、この時は、久良岐という指導者が中心であったにもかかわらず、課題四題すべてを総互選で行なっている。これは俳句の運座を模倣したものだろう」

次に挙げるのは有名なエピソードであるが、明治40年3月に久良岐が大阪に来たとき、地元の小島六厘坊が参加した。六厘坊は当時20歳(数え歳)。久良岐が競点(互選)にするか、自分ひとりの選にするかと尋ねたところ、六厘坊は敢然と互選を主張したという。
このときの互選の方法は「頂戴互選」であった。読みあげられた句に対して、それを選ぶ人は「頂戴(チョーダイ)」と声をあげる。六里坊が頂戴、久良岐も頂戴だとすれば、その句に二点入ることになる。川柳独自の頂戴選であるが、現在では行なわれることはほとんどない。

近代川柳の出発にあたって互選句会の可能性があったにもかかわらず、川柳が個人選に変っていったのはなぜだろう。
尾藤は次のように指摘している。

「明治新川柳初期の句会では、宿題(兼題)というものはなく、集会当日、出席者が揃ったところで当座題(即席題)を課するのが普通だった」「選句はもちろん総互選であった」
「しだいに参加者が増え、句会の規模が大きくなってくると、運座(互選)に不便を感じるようになる。明治39年から40年代にかけての読売川柳へなぶり会では、出席者40名前後で、川柳、へなぶりの互選を宿題(一句吐)としており、それだけで句会時間は午後6時から11時まで5時間を要している。これが互選形式を採用する句会の限界で、ことに川柳独自の『頂戴互選』などは、もはや不可能になっていた」
「句会がひとつの共通な様式を整えた時、互選は二次的なものとなり、課題は、宿題・席題の二本立て、選句は各題個人選という基本形ができ上った」

以上、俳句の句会と川柳の句会の違いと、違いに至るまでの歴史的経緯を見てきた。冒頭に紹介した対談で池田澄子が「人がどう読んでくれるかを確かめるために句を出す」と言い、樋口由紀子が「一番良い句を出す」と発言したのには、それぞれの句会の方式の違いがあったことになる。
私は川柳に批評が発展しないのは、ふだんの句会で句を読む修練ができていないことに原因があると思っているが、だからといって互選句会を行えばすぐに句の読みが進むかというと、話はそう簡単ではない。
任意選者制の弊害を克服するために、共選(同じ題の句群について二人の選者が選をすること)を取り入れたり、数題のうち一題だけを互選にしてみたりと、さまざまな工夫がされてきたが、そのような試みそのものも少数であり、川柳句会一般の活性化にまで至っていない。従来、川柳句会の革新は「選者論」を中心に考えられてきたのであり、どれだけ良質の選者をそろえられるかが句会・大会の成否を決定してきたのである。

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