2012年9月14日金曜日

同じ現実を見ているはずなのに川柳はなぜ遅れていくのだろう

短歌誌「井泉」47号が届いた。
永井祐歌集『日本の中でたのしく暮らす』の書評を彦坂美喜子が書いている。

あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな  永井祐

永井祐と言えば真っ先に思い出す歌である。逆に言えば、私はこの歌以外に永井のことは何も知らない。永井の歌集名となったのは次の歌である。

日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる  永井祐

「日本の中でたのしく暮らす」というフレーズを私はイロニーと受け取ってしまう。たぶん多くの川柳人もそうだろう。「たのしいはずのない現実」と「たのしく暮らす」という言葉との落差が反語や皮肉を産みだすのだと…。けれども、彦坂は次のように述べる。

「道化、イロニー、ふざけている……歌集名からから想像するこのような感じは、歌集の作品を読む限りどこにも見当たらない。『日本の中でたのしく暮らす』という言葉そのままに、そこにはいっさい余計な思念は含まれていないことがわかる。むしろ、このストレートさは、外部がない彼らの現在そのものの象徴のようである」

うーむ、イロニーではなかったのか。そう思うと、この歌はおそろしい。「ぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる」も短歌的喩ではないのだろう。

「井泉」に連載の「ガールズ・ポエトリーの現在」で喜多昭夫は柴田千晶を取り上げている。柴田千晶といえば、藤原龍一郎とのコラボレーションで東電OLを詠んだ作品を真っ先に思い出すが、喜多は柴田千晶について次のように言う。

「柴田千晶の作品が好きだ。そこには紛れもなく『現代』が描かれているから。今、私たちが息を吸い込んでいる『時代』の空気感がありありと感じられるから。やはり文学は絵空事であってはならない。時代の痛みを表現しなければならないのだ」

冬帽の手配師蟹江敬三似       柴田千晶
風花の倉庫うつむくフィリピーナ
全人類を罵倒し赤き毛皮行く

田口麦彦は「川柳研究」に「誌上Twitter」というコーナーを連載している。今年の5月号のタイトルは「いま変わらずにいつ変わる」、6月号は「時代の感性を磨く」となっている。昭和28年に西日本を襲った大災害に遭遇したことがきっかけとなって、その体験を詠むことから川柳を始めた田口は、「いまこそ変革の時」と訴えている。
「人間生きているかぎり、立ち止まったままの停滞は許されない」「今でジョーシキと思っていることを勇気を持って見直すことから一歩がはじまる」(「川柳研究」5月号)

けれども、田口がいうような新しい川柳表現にはなかなかお目にかからない。同じ現実を見ているはずなのに、なぜ川柳は遅れてゆくのだろう。もちろん表層的な時事句は量産されているが、現実と川柳形式とが何かのヴェールによって隔てられているような気がする。

もう一度、「井泉」に戻ると、「リレー小論・短歌は生き残ることができるか」に山田航が「もっといろんな人に会いたい」という文章を書いている。ここでも永井祐の短歌が引用されている。

『とてつもない日本』を図書カードで買ってビニール袋とかいりません   永井祐

そして、山田はこんなふうに述べている。
「自分の思いを理解してくれる者だけで周囲を固めて世界を築こうとして、本当に他者を描いているなんていえるのだろうか」「短歌が生き残る手段があるとしたら、たとえ仮構であってもより広い社会層の人々の声を掬い上げて多面的な抒情を表現してゆくことが、大きな有効性を持っていると思う」

すぐれた表現者が現れない限り、批評は何もできないのだ。

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