2012年9月7日金曜日

きゅういちの10句を読む

俳誌「船団」に芳賀博子が連載している「今日の川柳」、今月発行の94号では湊圭史を取り上げている。湊はデイヴィッド・G・ラヌー著『ハイク・ガイ』(三和書籍)の翻訳者として知られるが、3年ほど前から川柳も作りはじめ、「ふらすこてん」「バックストローク」などに作品を発表している。評論の分野でも活躍し、『新撰21』『俳コレ』などのほか、ウェブマガジン「詩客」にも時々「俳句時評」を書いている。昨年の「バックストロークin名古屋」でパネラーをつとめたことは記憶に新しい。
芳賀は湊にインタビューした上で、彼の作品とあわせて「ふらすこてん」同人の作品も紹介しているが、こういう形で「ふらすこてん」が広く短詩型の世界に紹介されることは歓迎すべきことである。「ふらすこてん」の主宰者である筒井祥文は川柳の句会回りには熱心だが、川柳のワクを超えた表現の世界に対してアピールすることには必ずしも熱心とは言えないからである。

さて、「ふらすこてん」の同人に〈きゅういち〉という川柳人がいる。本名は宮本久だが、〈きゅういち〉の名で同誌を中心に川柳作品を発表している。「川柳木馬」130・131号の「前号句評」など他誌にも文章を発表しているから、ご存じの方も多いことだろう。仕事が忙しいようで、句会・大会にはあまり顔を見せることがない。川柳人はあちこちの句会を回ることによって名が知られてゆき、選者をつとめる経験を重ねることによって階梯を登ってゆく。きゅういちの場合は、そういう階梯を踏んでいないから、大多数の川柳人の作品とは無縁のところで川柳活動を続けている。句会回りにあまり熱心ではない私が言うのもおかしいが、そこにはある種の危険性を孕んでいないこともない。句会に染まらないことは独自の表現世界をもつことであるが、同時に「川柳」から遊離する諸刃の刃となるからだ。
私は今まで彼の作品を読むたびに、何か腑に落ちないものを感じていた。表現意図と言葉が釣り合っていないというか、何故このような作品を書くのだろうという感じがぬぐえなかったのである。ところが、「ふらすこてん」23号(9月1日発行)のきゅういち作品を読むと、テーマと言葉が拮抗していて充実した作品世界を切り開いている。筒井祥文が巻頭作品においているのも頷けるのである。
今回は、きゅういちの10句を私なりに読んでみたい。

慎みの梨のほとりへ嫁ぎます

嫁いでゆく女性の口調で語られている。けれども、「慎みの梨のほとり」へ嫁ぐのだという。慎ましい女性が慎ましく嫁いでゆくとも読めるが、慎ましくない女性が心を入れ替えることにしたと読んだ方がよさそうだ。
「梨」の別名を「ありの実」という。「無し」という音を忌んでのことである。「慎みの梨」というようなものが実体として存在すれば、それはそれでおもしろいだろうが、一句は「慎みがない」という言葉から発想されている。
そうすると、この女性は心を入れかえて慎み深くなったのでは更々なく、慎みの無い態度を貫いていることになる。
ともあれ一人の女性が嫁いでゆく。次に起こるのは出産という事態である。

黄を帯びた刃先産み付けられてをり

「黄を帯びた刃先」を産むのだという。
昆虫が葉に卵を産み付けるように、人の肉体が無機的な刃物を産む。刃物を産んだとき生身の体は傷つくだろう。それはひとつの受苦であると同時に、産み付けられたものが他者を攻撃するために用いられてゆく。

《子宮内砂漠》に月の満ち行くや

砂漠の月というイメージがある。あるいは「月の砂漠」という歌がある。
子宮の内部風景を見たことはないが、それは砂漠のようなものかも知れない。そこに月が出ている。けれども、「月が満ちる」という言葉は出産の場面でもよく使われる。そうすると、この月は偽物の月なのだ。
月が満ちて出産のときが近づいてゆく。

代理母に白湯を注げば午後のキオスク

出産するのは代理母かもしれない。
カップラーメンにお湯を注ぐと食品が出来上がるように、代理母の子宮を借りて子どもが製造される。人間的な行為と即物的な行為が重ねあわされている。
今回のきゅういちの作品は、常にダブル・イメージによって作られている。二つの文脈が一つの句に圧縮されているのだ。
キオスクでカップ麺にお湯を注いでいる人がいる。お湯がぬるくて食べにくいことも多々ある。

頬杖に舫う脱法物の義母

代理母の次は脱法ハーブ。母という存在も脱法ハーブのようなものか。
「舫う(もやう)」だから船をつなぐのだろう。つなぐこととそれを拒むものがせめぎ合っている感じがする。

母子手帳醤油の樽に狂れる月

「狂れる」は「狂える」の誤植なのか、それとも「おぼれる」と読ませるのか。
「母子手帖」で切れるのだろうが、母子手帳が醤油に濡れているイメージも浮かぶ。平穏な世界にズレや違和が生じている。

遠雷や全ては奇より孵化をした

「孵化」は昆虫や鳥の場合に使う。ヒトが生まれるにしても、鳥獣虫魚と同じ相で眺められている。
「奇」は「奇跡」か「奇矯」か「奇人」か。マイナス・イメージとばかりは言い切れない。この「奇」に積極的な意味を込めたとすれば、この句が10句全体を支える役割を果たしている。

生まれなさい外に気球が待ってます

生まれたものは母の胸に抱かれるのだろうか。いや、そうではなくて気球に乗ってさらに遠くの場所に連れていかれるのである。
気球に乗ってこの世に生まれてくるとも読めるが、私はその読みは取らなかった。

臨月のキャベツ担いで走る婆

臨月のキャベツを担いで走るのは産婆であろうか。
ここにも妊婦とキャベツとを等質に見る目がはたらいている。

発注と違う嬰児よ安らかに

この句について筒井祥文は「『安らかに』眠れという。が、それは生きてのことか殺されてのことか。ここいらが川柳である。『発注と違う』は既にモノ扱いである」と選評を書いている。
発注したモノが届くように、ヒトは生まれてくる。時には発注したモノとは異なる製品が届くこともある。
「誕生」という命を産みだす事態をきゅういちは冷徹に描ききっている。それは過酷なこの世界を反語的に問い直すことでもある。川柳人の根底にある世界との違和をきゅういちは表現しきったのである。

遠雷や全ては奇より孵化をした   きゅういち

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