2012年6月15日金曜日

その言葉はあなたの言葉ですか

ボルヘスの『ブロディの報告書』が岩波文庫に入ったので読んでみた。このところ岩波文庫はボルヘスの作品に力を入れている。私のボルヘス読書体験は篠田一士を経由しているから、ボルヘスは前衛作家と受け止めている。ラテンアメリカ文学に関しては、集英社から刊行された「世界の文学」「ラテンアメリカの文学」のイメージが強く、そこにはラテンアメリカの土俗的にして前衛的な作品が並べられていた。ウンベルト・エーコ原作で映画化された「薔薇の名前」に登場する盲目の修道士(図書館長)はボルヘスをモデルにしていて、映画も原作も随分楽しませてもらった。
「ブロディの報告書」はボルヘス晩年の作品で、アルゼンチンの無法者たちを中心に描かれている。「私はボルヘスだが、こんな作品も書けるんだよ」という感じで、それなりに面白かったものの、期待した前衛性は失われていた。前衛であり続けるのはむつかしいことである。訳者の鼓直氏には大橋愛由等詩集『明るい迷宮』の出版記念会でお目にかかる機会があり嬉しかったのである。

さて、先日(5月11日)、慶紀逸250年について触れたが、当日の講演を記録した冊子を送っていただいた。「俳諧史から見た慶紀逸」(加藤定彦)、「川柳と『武玉川』」(尾藤三柳)の二つの講演が収録されていて参考になる。
加藤定彦は点取俳諧の流行などの時代背景を丁寧に説明しながら、『武玉川』と慶紀逸について述べている。興味深いのは、慶紀逸についての江戸時代の評価で、掃月庵弄花稿本の『家童筆記念』では、「ただ評物を催し角力を催し、銭取る事のみをたくみける点者多し。就中、紀逸といふ点者より俳諧師は外道に落ち入りたり」「新たに句作するを好まず、古句古句とばかり思ひ寄る事なり。是れ、古句を集めたるの罪甚だし。焼き直しの根元は紀逸なるべし」とさんざんに貶している。また、幕末の天保三年『続俳家奇人談』では「今、江戸俳諧と称するはこの人を以て其権輿とす。されば、一時流行して財をえしも、遂には又おとろへて貧し」とある。
「いわば代表的な俳諧点者であったけれども、蕉風の立場からすると、どうも余り好ましくない、そういう俳諧師、宗匠、判者だと評されている」というのが加藤のまとめである。

続いて尾藤三柳の「川柳と『武玉川』」は『柳多留』と『武玉川』の共通点を挙げている。

「川柳文芸は『武玉川』から始まるといえそうである」(山澤英雄)
「武玉川はフモール、柳多留はサテール」(中村幸彦)

その上で、三柳は「はめ句」の問題を取り上げている。
「『はめ句』というのは、古くは『舐句』とも呼ばれ、前句附特有の不正投句で、出題された前句に合いそうな附句を、既成の前句附集から探し出して投句する純然たる剽窃である」
「『柳多留』の佳句として、作者ならびに選者の資質をも高めている句が、実は目の前にある他誌から盗られているという事実を、単なる重複句として看過することができるだろうか。『武玉川』と『柳多留』とは、先行書と模倣書という関係以上に、複雑によじれ合っているのである」

腰帯を〆ると腰が生きて来る(『武玉川』原句)
腰帯を〆ると腰も生きてくる(「川柳評万句合」はめ句)
腰帯を〆ると腰は生きてくる(『柳多留』御陵軒可有訂正)

「触光」27号に発表された第2回高田寄生木賞についても以前触れたが(6月1日)、その選評をめぐって二つの点を補足的に考えてみたい。改めて紹介すると、大賞を受賞したのは次の作品である。

怒怒怒怒怒 怒怒怒怒怒怒怒 怒怒と海    山川舞句

中七の「怒怒怒怒怒怒怒」の活字は反転して表記されている。選者のうち渡辺隆夫が特選、野沢省悟が秀逸に選んでいる。渡辺は「3・11を一句で表現すればこうなる」と述べ、野沢省悟は
「川柳の表現方法はたくさんあるが、この句のように、視覚的に聴覚的に表現された作品は稀少である。川上三太郎に、
   恐山 石石石石 死死死
があるが、作者の強い思いがなければ一句として成立しないと思う」と書いている。
また、「金曜日の川柳」(「ウラハイ」6月1日)で樋口由紀子も取り上げているので、そちらもご覧いただきたい。
気になるのは、「週刊俳句」の読者のコメントで、活字の反転は過去の作品や他ジャンルでは珍しいものではないという指摘があったことである。現代詩における昭和初年の表現革命の際にさかんに試みられたし、川柳でも一時期の木村半文銭の作品に頻出する。
誤解しないでほしいが、私は大賞作品を貶めているのではなく、活字表現の斬新さを言うだけでは短詩型文学の表現史に詳しい読者を納得させられないということなのだ。

「触光」の寄生木賞の選評に話を戻すと、樋口由紀子はこんなふうに感想を述べている。
「川柳を書いている人はいい人が多いのかと、皮肉も少しこめて思った。ほとんどの人がテレビや新聞などで報じていることをそのまま真に受けている。もっと感心するのは、心情まで左右されていることである。みんなが感動することに感動し、みんなが怒ることに怒り、みんなが悲しむことに悲しんでいる。頭の中にインプットされたことそのままを自分の考えだと思っている。そして、それらを句にしている」

樋口の問題提起を私なりに敷衍してみよう。
作者が自分の言葉だと思って書いた場合でも、実は新聞・テレビなどで耳にする言説とほとんど同じ場合がある。即ち、誰もが言っていることを自分の作品として述べているに過ぎないことが多い。そこで、「その言葉は本当にあなたの言葉なのか」と問い直してみることにしよう。「私が書いたのだから、私の言葉に決まっているじゃないか」と怒る人もいるだろう。しかし、言葉には意味や普遍性があるから、百%独自の言葉というものはありえない。また、人間の発想も似たようなものだから、一つのテーマについて類想・同想が避けられない。恐いのは、作者が自分独自の表現だと思っていても、読者の目から見ると常套的で陳腐な表現にすぎないケースが多々あることである。さらに、無意識的な圧力によってある表現をとらされていることがあり、その場合は作者の自己表現ではなく世論や常識によって「言わされている」ことになる。

かつて五十嵐秀彦は「週刊俳句」(2011年5月22日)の時評、「それは本当にあなたの言葉なんですか」で似たような問題を取り上げたことがある。「それは…」とは森村泰昌の発言である。文脈はそれぞれ違うが、問題性は共通すると思う。

さらに遡れば、「バックストロークin大阪」のシンポジウムで彦坂美喜子は「言わされている」という問題を取り上げた。彦坂はこんなふうに発言している。

「1980年代、俵万智『サラダ記念日』以後のニューウェーブの時代になりますと、もう一度『私』の問題が出てきます。その背景には電脳社会、情報化社会の拡大があり、パソコンなどが出てきます。そういう社会のなかでは、『私』が何かを決定するということが次第にあやふやになってきます。例えば『私』が欲しいと思ったものが、実はファッション雑誌などに載っていて、みんながいいと言っているという過多な情報によって、欲しいと思わされているのではないか、ということです。表現もそれと同じで、本当に『私』が心から思ったのかどうかが疑われてきます」(「バックストローク」29号)

現代の高度資本主義社会(情報化社会)において、欲望や言説までもが実はそう仕向けられているのではないかと問うことは必要である。批評性を本来の持ち味とする川柳がこのことに鈍感であってよいはずはない。
その言葉はあなたの言葉なのですか。

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