2012年6月8日金曜日

映画と川柳

映画「ジェーン・エア」が封切になったので、さっそく見に出かけた。ジェーン役は「アリス・イン・ワンダーランド」(ティム・バートン監督)に出ていた女優ミア・ワシコウスカヤ。「ジェーン・エア」は何度か映画化されているが、ジョーン・フォンテインのイメージが強いと言えば古すぎるだろうか。今回の映画はジェーンの性格に焦点が当てられ、ワシコウスカヤには個性的な存在感がある。ジェーンとロチェスターがどうなるのか分りきっているのに惹き込まれるものがあって、客席では往年の文学少女・文学青年たちが画面に見入っていた。監督は日系アメリカ人のフクナガという人。ティム・バートン監督、ジョニー・デップ主演の「ダーク・シャドウ」も話題になっているし、文芸映画ではソクーロフ監督の「ファウスト」も上映中。ソクーロフといえば、島尾ミホが延々と語り続ける映画「ドルチェ優しく」が印象に残っている。「死の棘」に描かれたミホさんの風貌に接することができる貴重な作品である。

さて、映画を見て川柳を作るという方法があり、1930年代に川上三太郎が「未完成交響楽」を見て作った連作あたりを嚆矢とする。映画はシューベルトが「未完成」を作曲するに至る恋愛を軸としているが、三太郎はこんなふうに詠んでいる。

およそ貧しき教師なれども譜を抱ゆ     川上三太郎
わが曲は街の娘の所有(もの)でなし
四月馬鹿驕りに尽きし嬌声(わら)ひ声
矜持とはさへづる中の唖の声
家庭音楽教師に春の姉妹
りずむ―それは貴女(あなた)の顫音(こえ)のその通り
君や得し黎明愛の花ひらく
嫁ぐ女性(ひと)の涙に消えし泣菫譜
わが恋も曲も終らじ人の世の
アヴェマリアわが膝突いて手を突いて

ルビが多くストーリーをそのままなぞっているような作品群である(差別用語も使われているが、もとのまま引用)。映画を見ていないので断定はできないが、ネットで検索してみるとシューベルトが楽譜に「わが恋の成らざるがごとく、この曲もまた未完成なり」と記して映画が終わるというから、「わが恋も曲も終らじ人の世の」などの句はそのまんまである。作品の完成度より映画を見て連作を作るという方法そのものが当時は新しかったのだろう。この作品の前年には、日野草城の連作「ミヤコホテル」が話題になっていた。

小説と映画との関係について、私が興味をもっているのは1926年に衣笠貞之助が横光利一と組んで結成した「新感覚派映画連盟」である。
横光の「日輪」はフローベールの「サラムボー」にヒントを得て書かれ、卑弥呼を主人公にした小説である。衣笠は「日輪」を映画化し(1925年)、横光と衣笠の交流が始まった。ちなみに映画「日輪」は市川猿之助(猿翁)一座の出演で、卑弥呼を主人公とすることが冒涜とされて上映中止になったという。新感覚派映画連盟は1926(大正15)年に設立され、川端康成の脚本で製作されたのが「狂った一頁」である。

新感覚派映画連盟の作品はこの一本で終わったのだが、「狂った一頁」のフィルムは現存しないと思われていたところ、1971年に衣笠監督の自宅で発見された。45年ぶりの試写会に出席した川端康成は「今見ても恥をかかなくてすんだ。よかった」と語った。このあたりに前衛芸術のむつかしさがある。その時代にはアヴァンギャルドであっても、時間の経過とともに色あせてしまう作品が多いからである。「狂った一頁」はその欠陥から免れているらしく何度か上映会があったが、私は残念ながら見る機会がなかった。上映会のチラシだけは持っていて、大切に保存している。『川端康成全集』には脚本が収録されているが、活字ではイメージがつかめないのである。

衣笠貞之助は「狂った一頁」のあと時代劇「十字路」を撮り、この作品を携えてモスクワやベルリンなどを訪問する。モスクワではプドフキンやエイゼンシュテインとも会っている。この時期の衣笠は同時代の世界の映画史の中でいい線をいっていたのだ。

横光に話を戻すと、横光は俳句も作っていて、石田波郷に対する影響はよく知られている。横光は昭和10年から「十日会」という俳句会を開いていて、永井龍男・中里恒子・石塚友二・石田波郷などが参加していた。「俳句は文学ではない」という波郷のテーゼは「俳句は文学である」という子規のテーゼとどのような関係にあるのだろうか。
横光の小説『旅愁』には俳句があちこちで出てくることもよく知られている。『旅愁』の登場人物は「ノートルダムは見れば見るほど俳句に見えてくる」と言う。ノートルダムのどこが俳句なんだと突っ込みたくなるが、横光なりに東西文化の融合を考えていたのだろう(悪しき日本主義として批判されることもある)。横光文学における新感覚派の描写と連作俳句との共通性も指摘されている。

蟻台上に飢えて月高し   横光利一

さて、川上三太郎は「未完成交響楽」以後も小説や映画などを題材として詩性川柳の連作を展開していったが、それを語るべき材料を私は持ち合わせていない。

「ジェーン・エア」は川柳にならないが、「ダーク・シャドウ」の方が川柳にしやすいとも言えない。ブラックからブラックを作るのはむつかしいのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿