2012年2月24日金曜日

鶴川さんは国際連句の夢を見るか

ベースを共有しながら他者と出会うということが文芸にとって有効であり、刺激的なことでもあろう。そのような他者として、例えば川柳にとっての俳句とか、俳句にとっての短歌とかいう日本文学内部のジャンルが考えられるが、外国語・外国文学との出会いも忘れてはならないことだろう。俳句なら俳句という固有のジャンルが世界文学のなかでどのような普遍性をもっているかが問われるからである。
「現代詩手帖」2月号の特集は「トーマス・トランストロンメルの世界」で、昨年ノーベル文学賞を受賞したスウェーデンの詩人を取り上げている。この詩人は「俳句詩」の書き手としてもよく知られている。

送電線
厳寒の王国の上にのび
あらゆる調べの北にあり

彼の詩集『悲しみのゴンドラ』(思潮社)の増補版もいま書店の店頭に並んでいる。
さて、連句の世界にも国際連句の動きがあって、昨年10月に開催された「国民文化祭・京都」では国際連句の座が2座設けられた。
次に紹介するのは鈴木了斎・捌きの座で巻かれた作品である(『第26回国民文化祭・京都2011連句の祭典・作品集』による)。

the begger
stretches out his hand
among golden leaves / Kai FALKMAN

夜露を集め流れゆく川     鈴木了斎

阿舎の月影多に溢るらん     平林柳下

 In front of the alcove
I place a silk cushion / Allen LEVINS

シャム猫に狂四郎てふ名を付けて   星野焱

 老鶯がふいに鳴き出し       浅賀丁那

ここでは英語で作句する連衆2人、日本語で作句する連衆が4人、計6人で「十二調」という形式で連句を巻いている。掲出したのはその前半部分。カイ・ファルクマンはスウェーデン俳句協会の会長である。ノーベル賞設立110周年を記念して、東京のスウェーデン大使館内に「アルフレッド・ノーベル記念講堂」が作られたそうで、カイはそこでトランストロンメルの俳句について講演するために来日したということだ。「現代詩手帖」の特集にも彼は寄稿している(後述)。ここではスウェーデン語ではなく、英語で作句している。
アレン・ルヴァインズはアメリカから参加。国民文化祭・前夜祭のアトラクションで連句をベースとするパフォーマンスにピアニストとして出演した。連句・俳句の創作もする人である。
当日はもう1座、連句の座が設けられ、こちらの方は日本語・中国語・英語・スペイン語の四カ国連句である。

ケルアックの墓で句を読み麦酒飲み
 昼下がりまで三線を抱く
凪を待つ海をへだてる恋心
 青春枯れて元情人の夢
胃を切って癌と生きるも与話情
 今日は神社に明日はお寺に

Jack Kerouac’s gravesite /reading his haikus /we all drink beer
  holding a Sanshin /until aftarnoon
waiting for the calm /the loving hearts/separated by the sea
young spirits weither away /dreams of last laver
stmach cut/living with cancer/Worldly Empathy
today at the shrine/tomorrow at the temple

凱羅阿克墓前立、辺念俳句喝啤酒
 猶抱三弦響午後
且待風平浪静時、隔海相望恋人心
 春光漸老離人夢
胃癌切除後、共生「与話情」
 今住神社明宿寺

スペイン語版は省略するが、オリジナルの四カ国版で示すと次のようになる。

Jack Kerouac’s gravesite /reading his haikus /we all drink beer ラファエル・デグルトラ
昼下がりまで三線を抱く 井尻香代子
凪を待つ海をへだてる恋心     近藤蕉肝
春光漸老離人夢          鄭民欽
胃を切って癌と生きるも与話情   竹内茂翁
Hoy el hotel es templo. / Manana hotel templo.   アウレリオ・アシアイン

スペイン語のマニャーナという単語はパソコンではうまく出ないが、了解されたい。連衆のうちラファエルはボストンから(ボストン俳句協会会長)、鄭民欽は北京から参加(北京工業大学教授)。アウレリオは京都在住のメキシコ人である(関西外国語大学教授)。オクタビオ・パスの国際連句は比較的知られているが、アウレリオはパスの主宰していた雑誌の編集長をしていた人。
ラファエルの付句に出てくるジャック・ケルアックはビート・ジェネレーションの作家で、『路上』は日本でもよく読まれている。彼は俳句や禅にも関心をもっていた。
捌き手の近藤蕉肝は前掲の「現代詩手帖」の特集のうちカイ・ファルクマン「日本のトランストロンメル」を訳している。カイは次のように書いている。

〈 彼のノーベル賞受賞理由に俳句が含まれていないのは何故かという質問に答えるために、私は選考委員会の「『徐々に小さくなる形式と徐々に深まっていく集中度』へ限りなく近づいて行く傾向がある」という表現を引用した。しかしこれは彼の俳句以外の詩にも当てはまることだ。 〉

R・Hブライスの『世界の風刺詩川柳』以来、川柳も英訳されているが、国際川柳という話はあまり聞かない。かつて近藤蕉肝に「外国語に訳された場合でも失われることがない川柳のエッセンスは何ですか」と問われたことがある。答えにくい問いではあるが、あえて答えるとすれば、批評性とかアイロニーということになるだろう。日本語によって成立している詩形が他の言語と出会い、世界文学のレベルで問い直されるとき、失われるものと残るものとがある。そのとき残るものだけがエッセンスだとも言い切れないと私は思うが、それにしても川柳のエッセンスとは何だろう。

*トランストロンメルのトランはスウェーデン語で鶴、ストロンメルは小川、流れという意味らしい。即ち、鶴川さんである。

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