2012年2月3日金曜日

「生きること」と「残ること」―「井泉」1月号から―

今回は短歌誌「井泉」43号(2012年1月)を紹介する。井泉短歌会は名古屋に発行所をおき(編集発行人・竹村紀年子)、春日井建の流れをくむ短歌会である。短詩型の他ジャンルにも好意的で、毎号巻頭の「招待席」には短歌以外に俳句や現代詩などの作品が掲載されている。川柳もときどき招待作品として掲載されるのが注目される。また評論のテーマ設定が興味深く、数号に渡って連続してひとつのテーマを追求し、多彩な論者によってさまざまな角度から論じられている。
「リレー評論」のテーマは昨年、「短歌の『修辞レベルでの武装解除』を考える」だったが、今号から「短歌は生き残ることができるか」に変わった。加藤治郎・彦坂美喜子・山下好美の三人がこのテーマに取り組んでいる。

加藤治郎は伊藤左千夫の「牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる」を引きながら、短歌は新しい担い手と「場」を獲得してきたから生き残ったと述べている。そして、新聞歌壇から電子・ネット化、ケータイ短歌などへの大きな変化の波に触れながら、「場」の変化とともに作品の変貌は避けられないことを指摘している。

山下好美は短歌を受容する共同体の問題に触れ、世代によって属している共同体が異なることで、お互いの短歌が解らなくなっていると述べている。「結社」「同人誌」「インターネット」「個人誌」などしれぞれの共同体があり、世代の差は共同体を喪失させるほど大きくなっているというのだ。

彦坂美喜子は「生きること」と「残ること」とを区別しながら、こんなふうに述べている。

「短歌が生き残るとは、ただ残るということとは違うのではないか。ただ残るということだけなら、古典のように、伝統的技芸のように残ることはある。しかし、生き残るというとき、短歌は時代の表現として活き活きと時代と拮抗している必要があるだろう。生きるということは、表現の問題であり、残るということはシステムの問題ではないか、ふとそんなことを考えた」

「生きるということ」は表現の問題、「残るということ」はシステムの問題というのは明快な認識である。
川柳の場合でも、川柳は常に時代の新しい表現でなければならないとはよく聞かれる言葉である。ただ、その新しさというものが、流行の言葉や時事的な話題をいち早く句に取り入れるという表層的なレベルにとどまっていることが多く、時代と切り結ぶような本質的な新しさにはめったにお目にかかれない。
システムの問題については、句会システム・新聞柳壇システム・大会システムがそれなりに確立していて、大会動員数も多い。けれども、若い世代の川柳人が一握りしか存在しないので、世代の差による共同体の差というようなものはない。古い共同体が残存するだけで、そのような共同体が高齢化によって崩壊するのは時間の問題だろう。ネット川柳とかケータイ川柳という話も聞かないから、「場」の変質についてもよその話のようだ。歌人の小高賢は高齢者短歌の可能性について、老齢によって短歌作品が訳のわからぬおもしろさに至るケースがあることを指摘しているが、川柳の場合も高齢者川柳の可能性に期待するしかないのかも知れない。
川柳人にとってシステムの問題はけっこう重要なものである。従来の句会システムだけではたぶん川柳はもたない。句集・アンソロジー・批評という他ジャンルでは当然行われているシステムを整備することが必要であり、表現に専念するだけで事足りるというものでもない。
ところで、「表現」の問題について、彦坂は次のように書いている。

「私が考える『短歌が生きる』ということは、作品自体に相反するものを同時に抱え込んでいること。例えば、一般的な価値観と、それを越えようとするものを同時に内包している作品。意味でありながら、同時にノイズでもあることを意図している作品。表現自体が肯定と否定を内在させながら絶えず動いているもの。消費されることを求めながら消費されることを拒むところを持つもの。このような矛盾を抱え持つ表現が、多分今を生きるということと繋がっているのではないか。時代のなかで絶えず自己矛盾にむきあい表現を求めて動き続けているとき、短歌は生きていると言えるように思う」

このような作品を実現するのは至難の業だろうが、特に川柳では難しい。
一般的な価値観にアンチを唱えることは川柳の得意とするところだが、一般的な価値観とその超克を同時に含むことは難しい。消費―非消費についても、「消費」が商品化のことを言うならば、川柳作品にはそもそも市場価値はないのである。
けれども、彦坂のいう「意味でありながらノイズでもある作品」には心ひかれる。それは一句のなかに計算されたノイズを取り入れるということではないだろう。まだ見ぬ川柳の書き手が現れるまで、なお時間がかかりそうだ。

「井泉」の連載で楽しみにしているのは、喜多昭夫の「ガールズ・ポエトリーの現在」である。前号では雪舟えまの歌集『たんぽるぽる』が取り上げられ、今号では御中虫の句集『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』が俎上に上っている。

悪いけど枯芝のやうなをんなぢゃない  御中虫
炎天下処女の倒立すぐかわく
乳房ややさわられながら豆餅食う
きらわれてアイスモナカに依存する
話すでもなく裸になるでもなく

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