2011年12月23日金曜日

『俳コレ』のことから川柳アンソロジーに話は及ぶ

今年も残り少なくなってきたが、この時期になって注目すべき俳句集・俳書が立て続けに刊行されている。
一昨年の『新撰21』・昨年の『超新撰21』に続いて、俳句アンソロジー『俳コレ』が発行され、話題になっている。出版社は同じ邑書林であるが、今回の特徴は「週刊俳句」による編集であるということ。入集作家の選定のほか、掲載作品についても編集部がかかわって、各作家の自撰ではなくて他撰となっている。各作家が自撰した作品をもとに編集部から依頼した選者が100句を選出したということだ。〈作品を他撰とした理由は「その方が面白くなりそうだったから」ということに尽きます〉(「はじめに」)と上田信治は書いている。年齢制限もなく、19歳から77歳までに渡っている。「この人の作品をまとまった形で読みたい」「俳句はどこまでも多面的であっていいし、もっと紹介されていい作家や、もっとふさわしい価値基準があるはずだ」「同時代の読者の潜在的欲求の中心に応える一書となること」など編集部のスタンスは徹底して「読む側の立場」に立っている。
全部は紹介しきれないので、5人だけピックアップさせていただく。

襟巻となりて獣のまた集ふ     野口る理
おつぱいを三百並べ卒業式     松本てふこ
白壁に蛾が当然のやうにゐる    矢口晃
エリックのばかばかばかと桜降る  太田うさぎ
マンゴーを紙の力士は縛りけり   岡村知昭

野口る理は「spica」で名前は知っていたが、これまできちんと読んだことがなかった。吟行のときにカマキリの卵を見つけて不思議そうに見入ったあと、「これ潰したらどうなりますか」と手を伸ばしたという、関悦史が小論に書いているエピソードは印象的だ。プラトンのミュトス(神話)について論文執筆中というのもおもしろい。掲出句では眼前の襟巻をただ襟巻としてではなく獣としても見ている。「串を離れて焼き鳥の静かなり」でも「串にさされた焼き鳥」と「串を離れた焼き鳥」を複合的にみる目がある。「初夢の途中で眠くなりにけり」では夢の中に夢が入れ子構造になっているのだし、「走り出す人の呼吸に蜂がゐる」「蝶の足四、五本触れて電話切る」でも日常の中に別のものを見ている。「虫の音や私も入れて私たち」。
松本てふこは『新撰21』で北大路翼の小論を書いた人。今回は実作者として登場している。解説は筑紫磐井。巻末対談で池田澄子が「磐井さんにしてはめずらしい情のある文章」と発言している。100句のうち91句は磐井選だが、残りの9句は「自分で選んでみたら、と言われて選んだ句」という。ちなみに自撰句のひとつは「春寒く陰部つるんとして裸像」。
矢口晃はこれまで知らなかったが、「あと二回転職をして蝌蚪になる」「鷹鳩と化すや嫌われてもいいや」などおもしろい句があると思った。
太田うさぎは「雷魚」をはじめ幾つかの俳誌の同人らしいが、私は「豆の木」で彼女の作品を読んでいる。「西日いまもつとも受けてホッチキス」「遠泳のこのまま都まで行くか」「一種爽やか空腹のはじまりは」「念仏踊り必ずうしろ振り返る」。
岡村知昭は「豈」の同人で、川柳人・俳人の合同句会でもたびたびいっしょになったことがある。選句のときに私はつい岡村の句を選んでしまうのだった。句に飛躍感があり、言葉と言葉との関係性が常套的でないので心地よいのである。彼は「バックストロークin名古屋」にも出席していたから、川柳の知人も多いことだろう。小論を書いている湊圭史は「詩客」の「俳句時評」(12月16日)でも岡村作品を取り上げている。「きりぎりす走れ六波羅蜜寺まで」「ねんねんころりよ朝顔の震えるよ」「マフラーをして本名でやってくる」。

昨年の『超新撰21』には清水かおりが参加していたが、今回は100%俳句のアンソロジーなので、読んでもピンとこないだろうと思っていたけれども、いろいろな俳人がいて退屈しなかった。巻末対談で池田澄子が「私は、俳句はいろんな俳句がないと嫌なんですね。たとえば、このいちばん若い人たちがみんなお互いに似ていたら、すごく嫌でしょう?だから、この本の若い人たちが、それぞれ全部違ったのが、とてもよかった」と述べているのが、すべてを言い尽くしている。
ちょうど本日(12月23日)、東京で「俳コレ」竟宴が開催される。私は出席できないが、その様子はいずれあちこちのブログで報告されることだろう。

それでは、川柳のアンソロジーはどのような状況であろうか。
川柳では純粋なアンソロジーそのものが少なく、川柳入門書に付随してドッキングした形が多い。私が川柳に関心を持ち始めたころに利用して便利だったのは、山村祐・坂本幸四郎著『現代川柳の鑑賞』(たいまつ社・昭和56年)だった。巻末の「作家別、鑑賞句・引用一覧」には「近代編」「現代編(東日本・西日本)」として60人の川柳人の作品が一覧できる。古本屋でもときどき見かけるからお勧めの一書である。ちなみに、山村祐の発行した『合本・現代の川柳』(復刻版・森林書房・昭和59年)は必読の文献だが、ベテランの川柳人にねだって借り受けるしか方法がない。
あと『現代川柳選集』(芸風書院)は全5巻で、「北海道・東北・東京篇」「関東・北陸編」「中部・近畿編」「関西編」「中国・九州編」と地域別に作家を集めている。私が持っているのは「関西編」で、亀山恭太から時実新子まで20人の作品が収録されている。
川柳に季語はないのだが、川柳作品を歳時記的な切り口でまとめたものに奥田白虎編『川柳歳時記』(創元社・昭和58年)がある。
アンソロジーではなく、川柳作家全集としては構造社の「川柳全集・全15巻」がある。六大家をはじめ当時の主な川柳人をカバーしているが、これは今では手に入らない。バラ本でたまに古本で見かけるので、そのつど購入するようにしている。ちなみに、かつて構造社から「川柳」という雑誌が出ていたが、つぶれてしまったようである。
どうも昔話ばかりしているようで気がひけるが、現在ただいまのアンソロジーを提示できない以上やむをえない。今手に入るものとしては田口麦彦が三省堂から出した『現代川柳必携』『現代川柳鑑賞事典』『現代女流川柳鑑賞』の3冊がある。
結社のアンソロジーとしては『番傘川柳一万句集(正)(続)』が有名だが、今はあまり読まれないようだ(私も持っていない)。『川柳・その作り方・味わい方』(創元社・1993年)では巻末に番傘同人の句が一句ずつ掲載されている。川柳ではこういうやり方が多い。
また、「現代川柳・点鐘の会」では毎年『点鐘雑唱』のタイトルでアンソロジーを発行している。
私を最初に川柳に導いてくれた「堺番傘」の大久保孟美さんがよく言っていたのは、「川柳の読者になるためには川柳界に入らなければ本が手に入らない。自分はもともと川柳を読みたかったから川柳の世界に入った」ということだった。書店の店頭で手に入る川柳書が多少は増えたものの、そういう状況は現在でも変わらないのだ。

「読む側の立場」「読者の欲求」という立場に立った川柳のアンソロジーは可能だろうか。川柳の場合は基本的に「作者の立場」に立ったアンソロジー・句集である。即ち、作者がお金を出し合ってアンソロジーを作り、読者に読んでもらうというやり方である。極端に言えば、読者は一人(作者自身)であってもよいことになる。そのような状況から一歩先へ踏み出したのが『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)だった。
「バックストロークin名古屋」でもアンソロジーの必要性は唱えられていた。
復本一郎は『俳句と川柳』(講談社現代新書・1999年)で

 この人の欠点はただ自慢ぐせ    仲川たけし
 ご意見はともかく灰が落ちますよ  野里猪突
 A4で四五枚ほどの恋ごころ    今川乱魚
 しあわせはグリコのおまけ転がして 樋口由紀子
 倒れないように左右の耳を持つ   佐藤みさ子
 しあわせのほころびを縫うもめん針 大西泰世
 あなたとのままごと道具整理する  広瀬ちえみ

の7句を紹介したあと、「句集や単行本、雑誌、年鑑類から任意に選んだ七句であるが、選びつつ、川柳の分野でも、俳句のように、若い世代の川柳作者をも含めての信頼し得るアンソロジーが欲しいと思ったことであった。俳句の分野では、時々、結社を越えてのアンソロジーが編まれているが、川柳のほうは、寡聞にして知らない。流派を越えての川柳作品のアンソロジーの出現が、切に望まれるのである」と書いている。
復本の川柳観については川柳側からの批判もあったが、アンソロジーを待望するこの指摘自体は間違ってはいない。
若い川柳人の作品がアンソロジーに収録され、川柳の若手と俳句の若手とがともに五七五定型について語り合いながら未来の短詩型文学を創造していく、というのは夢にすぎないだろうか。正月にはまだ早いが、そのような初夢をしばし見ても川柳の神様は許してくれるのではないだろうか。

来週(12月30日)は年末につきお休みさせていただきます。次回は1月6日にお目にかかります。では、みなさま、よいお年を。

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