2011年11月25日金曜日

川柳の読み方・俳句の読み方

「川柳の読み方」「俳句の読み方」というようなものがあるだろうか。
どんな読み方をしようと読者の自由だとも言えるが、形式の差が読み方の差につながるとすれば、短歌や俳句の読み方とは異なる川柳の読み方というようなものが考えられないこともない。
「豈」52号掲載の「〈答え〉からの逸脱」で吉澤久良は「川柳的な読み」について述べている。吉澤は川柳の基本的発想を問答体ととらえ、既存の問答体の超克・逸脱に現代川柳のおもしろさを認めているようだ。(川柳の問答構造については、尾藤三柳に川柳の発生史をふまえた論考があり、川柳界でも広く認められている。)
吉澤は「A はBである」という問答体のうち、答えとしてのBに「落とす」という川柳の感覚について述べたあと、『超新撰21』から次のような句を引用している。

新緑や全国犀の角協会        田島健一
フジツボは小さき地蔵夏の月     柴田千晶
温和しい犬のゐる家たうがらし    上田信治
モザイクタイルの聖母と天使夏了る  榮猿丸
実のあるカツサンドなり冬の雲    小川軽舟
黄落や肉煮る鍋のふきこぼれ     山田耕治

吉澤はこれらの俳句の表現としてのおもしろさを認めつつ、特に1句目から4句目までの俳句に「違和感」を感じるという。それは「新緑」「夏の月」「たうがらし」「夏了る」などの季語と季語以外の部分との関係性(ギャップ・唐突感など)に対する違和感であるらしい。その上で彼は「そういう違和感を持つ理由は明らかで、私が川柳人であり、季語に関する歴史的な蓄積を知らず、季語についての共感を持っていないからである」と述べている。即ち、彼は川柳人として俳句に向き合っていて、川柳の眼で俳句を読んでいる、ということになる。はたして、「川柳的読み」「俳句的読み」というものがあるのだろうか。

私が「川柳と俳句の読みの違い」を意識したのは、「バックストロークin仙台」(2007年5月)のときの渡辺誠一郎の発言による。渡辺は俳句の場合、解釈の手がかりとして「季語」がひとつの安心材料になっているが、川柳の場合は自由な反面、どう読んでいくのだろうという疑問を提起した(「バックストローク」19号)。俳句の場合でも読みが変わってくることがあり、次の句が例に挙げられた。

空蝉の軽さとなりし骸かな  片山由美子

渡辺が「人間の亡骸がもはや空蝉の軽さとなってしまったという思い」と解釈したのに対して、作者は「骸」は蝉の死骸であって、「もの」からは離れないと述べているという。
「もの」にこだわるのが俳句の伝統的な読みかどうかは別にして、物から離れて別のイメージを重ねる読みも可能だということだろう。季語というベースがある俳句でも解釈が分かれることがある。では、川柳ではどうなのか。私が連想するのは次の川柳である。

かぶと虫死んだ軽さになっている   大山竹二

この句を「かぶと虫」自体を詠んだ句だと受け取る川柳人はいないだろう。生きている間は掌の上で力強く動いているかぶと虫も死ぬとあっけないほどの軽さになる。ここには病涯の作者自身のイメージが重なってくる。死んだかぶと虫と作者が一体化しているのだ。

ここで問い方を少し変えて、俳人が俳句を読むときの読み方と、川柳人が俳句を読むときの読み方には違いがあるのだろうか、という問いを立ててみることにしよう。また、川柳人が川柳を読むとき、俳人が川柳を読むときはどうか。
俳人であろうと川柳人であろうと、読者として作品に対しているなら、読み方に差異はないともいえるが、それぞれ背負っているものの違い、ふだん見慣れているフィールドの違いによって読みに微妙な差が生まれることも考えられる。

これも過去のことになるが、「五七五定型」3号(2009年2月)掲載の「五七五定型をどう読むか」という特集では、次の俳句が例に挙げられている。

かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す    正木ゆう子

この句について小池は次のように発言している。
「『飼ひ殺す』がインパクトの強い言葉で、川柳人の場合は飼い殺される鷹の方に感情移入する場合が多いと思います。飼い殺す人間と飼い殺される鷹との関係ですね。弱者の立場に自己同一化すれば、飼い殺される檻の中の鷹という自由を奪われたルサンチマンの表現になってしまいます。この句の場合は飼い殺す方に視点があるので、これを爽やかさと見るか、悪意と見るかですね。鷹に『風』という名を付けていて、風は本来自由なものですから、皮肉とも取れるわけです。皮肉と取ると句が陰湿になるので、爽やかさと取るのがいいかも知れませんね」
野口裕は「句はマニュアルなしで読んでいるような気がする。読みという作業はマニュアル化しにくい。結局、一句一句読んでいかないと仕方がない」と述べている。これに対して石田柊馬は「川柳の読みでマニュアルのあった時代があったんです。たとえば、正木ゆう子のこの句を『ナルシシズム』というマニュアルで読めば、飼い殺しというのは、自分の中にある実現できない鷹、という感じ、自分の一生を書いているというような読み方がかつてあったんです」と発言した。
「読みのマニュアル」とは聞き慣れない言葉だが、そのようなマニュアルが具体的にあったというのではなくて、一時期の川柳界の風潮として、「一句の中のどの言葉に作者がいるのか」「作者の言いたいことが句のどの言葉に反映されているか」という読み方が一般的だったということだろう。石田の発言に対して、野口がさらに「(マニュアルは)あるんでしょうけど、それには乗っかりたくないという気分があります。読むときに無意識に外して読んでいます」と述べているのは、読み巧者の野口であるだけに興味深い。

読みのマニュアル化とマニュアル外し。なかなか微妙な問題である。
読みは句会で鍛えられるのが一般であるが、川柳の句会では作品の読みにまで踏み込んで十分な時間をとることがあまりない。
俳句の読み、川柳の読み、それらを越えたところに成立する五七五定型としての一句の読み。それぞれの読者が作品と対峙しながら深めていくべきことであろう。
「一句のどこに作者がいるか」が問われた時代の作品を挙げておく。

人形の瞳をくりぬいて得た情事    飯尾麻佐子
風百夜 透くまで囃す飢餓装束    渡部可奈子

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