2011年7月15日金曜日

句会・大会考

句会・大会は川柳人にとって作品発表の主要な場であるが、川柳作品の文芸的価値を重視する川柳人の中には句会・大会を否定する者もいる。山村祐や河野春三などは大会否定論者であった。選者が作品を選句するというシステムそのものの中にジレンマがあって、選者の川柳観に合致しない作品は最初から排除されてしまうのである。そもそも選者が投句される作品をきちんと理解しているのかどうかに対する不信感が根底にあるから、没になった人々からは常に選者への不満がささやかれることになる。
大会のマイナス面を克服しようとして、これまでさまざまな工夫がされてきた。7月3日に岡山県の玉野市で開催された「玉野市民川柳大会」はそのひとつの形を示している。主催者の前田一石は「題」と「選者」の選定に精力を傾け、一年かけて次年度のラインナップを決定する。各題は共選であり、同じ題に対して男性選者と女性選者を組み合わせる。投句者は二人の選者に対して同じ句を提出するから、選者の川柳観によってどのように選句が異なってくるかが見どころとなる。
「バックストローク」ホームページに発表された「第62回玉野市民川柳大会」の作品の一部(選者の軸吟と特選・準特選)を紹介しよう。詳細についてはいずれ発行される発表誌をご覧いただきたい。

「 日本 」石田柊馬選
   軸吟  なんとなく日本はサラミソーセージ   石田柊馬
   特選  七月の雨にっぽんが濡れている     大西泰世
   準特選 噴水は獅子の口から日本デスマスク   小池正博
「 日本 」吉田三千子選
   軸吟  にっぽんのぶどうだなにはなつきたる  吉田三千子
   特選  プチトマト落果日本は半裸体      吉澤久良
   準特選 なんとなく日本はサラミソーセージ   石田柊馬
「 憂い 」石部明選
軸吟  酢昆布を永遠の憂いと思いけり      石部明
 特選  憂いまで三つ足りない螺子の穴     樋口由紀子
 準特選 憂いが尖る鉛筆を置きなさい      清水かおり
「 憂い 」黒田るみ子選
   軸吟  何を憂えて喪の色まとうのか鴉     黒田るみ子
   特選  湿ってる憂い天日に干してある     伊藤かぎう
   準特選 憂いてもブラックホールに勝てはせず  原修二

選にはその川柳人がたどってきた川柳歴や川柳観のすべてが反映する。複数の選者を比べてみたときの川柳の幅と、ひとりの選者の中での川柳の幅。許容範囲の広い選をすることがよいとも言えないし、選者の川柳観に反する句をすべて排除するというのも狭量である。投句者の方はどのような考えで投句するか。玉野の場合、二人の選者に同一の二句を出すことになるが、選者の選句傾向が分かっているとき、
①二句とも選者Aに当て込んだ句を作句する
②一句を選者A当て込みに、もう一句を選者B当て込みに作句する
③二句を選者B当て込みに作句する
④そんなことは考えずに、あくまで自分らしい句を作句する
という四通りの態度が考えられる。
文芸の作者としては④の立場で作句するのが当然であるが、そこに多少の邪念が入り込むことも避けにくい。川柳人にとって「全ボツ(一句も抜けないこと)」ほどの屈辱はないからだ。俳句結社に投句する人が、主宰の俳句観と選句眼をひたすら信じて、主宰の胸を借りるようにして句を送り続けるのとは事情を異にしている。
前回このブログで紹介した石田柊馬の「川柳味の変転」(「翔臨」71号)で、「句会(題詠)」と「創作」を別項として立て、題詠の方に川柳味が濃く現れるとしているのは、川柳人の感覚を反映しているものと見ることができる。

「バックストローク岡山大会」でも共選を一組実施している。
ここでは共選も単独選でも、選者による選評を付けるのが特徴である。また発表誌には一ページの選評を書くことが義務づけられている。今年の第四回大会では俳人の関悦史と川柳人の草地豊子が「点」という題で共選した。選評も含め、今月下旬には発表誌「バックストローク」35号が発行されるので、お読みいただきたい。

「ふらすこてん」の三人選も独自の形である。ここでは同一の題について三人の選者が選句する。もちろん単独選もあるが、この三人選が句会の目玉である。「ふらすこてん」16号から、六月句会の三人選を紹介しておこう。題は「マイナス」である。

兵頭全郎選 
  負い目だったか葵の上だったか    洋子
  プラスだったかも知れず尾行メモ   泰子
  風船を取り合っているピエロたち   えんじぇる
  減点法そしてだーれもいない海    和枝
石田柊馬選
  プラスだったかも知れず尾行メモ   泰子
筒井祥文選
  左目はまだ氷点下60度       茂俊
  先頭のラクダの瘤はマイナスイオン  多佳子
  HV型色鉛筆の芯は陰湿       勝比古

三人選となると句の評価はさらに多様化する。この句会では同時に参加者の互選も取り入れて、得点を集計するから、選句基盤はさらに不安定である。なぜ選んだか、なぜ選ばなかったのかという討論が毎回行われている。

結局、句会・大会の刷新は「選者」を中心課題としている。
この選者の問題を追及しているのが尾藤三柳著『選者考』である。尾藤は歌合の判者にはじまり、連歌・俳諧の点者から前句付の評者を経て明治以降に選者として固定するに至る、選者の歴史を丹念に拾い出している。
「選者は単なる選別者ではなく、同時に批評家であり、選(判)と批評(判詞)は表裏をなすものであった」
選から批評へという道筋は短詩型文学にとって必然的なものであり、判者・点者に対する批判は昔から連綿と続いてきたことが分かる。それを克服するものが説得力のある批評であり、批評は実作の要請に基づいて実践的に発展してくるものである。川柳だけが例外であってよいはずがない。
心敬の連歌論書『ささめごと』には、「我が句を面白く作るよりも、聞くは遙かに至りがたしといへり」とあるらしい。「聞く」は他人の句を正しく認識することであり、作句力と鑑賞力は並行すべきものである。

「選」という方式はどこまでいってもジレンマなのだ。
「選者が本当によいと思う句は特選ではなくて、その次くらいに置くのがよい」という心得を耳にしたことがある。最上と思うのなら特選にすべきだろうが、そこに別の価値基準が働くのだろう。選者が自分の結社の主宰の句を必ず取るという傾向もある。字や句風でわかるのだが、主宰の作品だと信じて採った句が筆跡の似た別人の句で真っ青になるという悲喜劇もある。
「選」という不安定な足場の中で、誰にでも支持される川柳を可とするか、少数の選者に理解される文芸的作品を目指すのか。マイナス面だけを見て句会・大会を否定すると、一種のデラシネ(根なし草)になってしまう。優れた選者によって新しい川柳人が育っていくことも事実である。いま各地で行われている川柳の句会・大会のさまざまな試みが実を結び、選→選評→批評というかたちで底上げされていくことによって、川柳の実作と選句とが互いに高めあうような情況が生れることを期待したい。

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