2011年4月15日金曜日

橘高薫風の抒情

橘高薫風が亡くなったのは平成17年4月24日、享年79歳であった。もうすぐ丸6年になるので、「川柳塔」4月号が「橘高薫風七回忌特集」を組んでいる。
橘高薫風(きつたか・くんぷう)は大正15年生まれ。昭和32年、麻生路郎に師事して「川柳雑誌」編集部に入る。昭和40年、「川柳塔社」創立委員、平成6年主幹に就任した。朝日新聞「なにわ柳壇」の選者を長年つとめ、代表句に「恋人の膝は檸檬のまるさかな」がある。一般読書界にはカラーブックス『川柳にみる大阪』(保育社、藤沢桓夫との共著)で知られているかもしれない。田辺聖子著『川柳でんでん太鼓』(講談社文庫)にも薫風の作品が何句か取り上げられている。
「川柳塔」の特集の中では、桒原道夫の「強靭な抒情」が薫風川柳の特質を論じていて注目される。桒原は薫風川柳の特質を「抒情」と捉え、薫風自身の次の言葉を引用している(以下、薫風および薫風論の文章は桒原による)。

「私は川柳という文芸は知らなかったけれど、元来短歌や俳句は好きで、作句はしなかったが鑑賞は学生時代から長い療養生活中にかけて常に親しんでいたので、抒情から抒情へ傾かざるを得なかったのである。路郎先生は少しずつ抒情句も採って下さるようになった。私の抒情が先生の採用に耐える水準に立ち至ったのだと思った」(「私の志向する川柳」)

薫風本来の抒情性が麻生路郎によっていったん抑えられ、深化された抒情となって川柳作品に結実したことがうかがえる。
次に薫風の第一句集から第四句集までのタイトルと代表句を紹介する。

砂丘有情 お前と月の出を待とう (第一句集『有情』昭和37年)
恋人の膝は檸檬のまるさかな   (第二句集『檸檬』昭和40年)
恋人がいま肉眼に入り来る    (第三句集『肉眼』昭和48年)
紫陽花の炎群愛不動かな     (第四句集『愛染』昭和61年)

桒原は「薫風川柳に対する評言」をいくつか引用している。たとえば早川清生はこんなふうに述べている。

「最初の句集『有情』において、すばらしい抒情で我々を圧倒した彼は、ある場合抒情作家などという名が却って負担となり、呪縛となって彼を制約したことと思うが、『檸檬』では期待どおりその重みに堪えて、みごとな成長をみせている」(「未来へ続く抒情」)

自らの資質について薫風は意識的であったのだろう。彼は若いころ「知的抒情」ということを唱え、「人間(生活)諷詠といわれる川柳で、恒久不変の人情を詠むにも、現代に生活するにふさわしい知的な眼の裏付けがなくては適わぬ」「知的抒情こそ、現代川柳の糧であると言えるのではなかろうか」(「前号作品評 知的抒情」)と述べている。
川柳の師である麻生路郎の作風との違いについても「先生のには生活の臭いが沁み込んでいるのに、私のはきれい事で終っている脆弱さが顕著だ。今になって気付いても遅いのだが、この差は如何ともし難い」(「路郎の精神 川柳の質的向上」)と言う。

薫風にとって「抒情性」と「川柳性」をどのように統一するか、川柳形式においてどのように「抒情性」を実現するかが課題であったように思える。一般に「抒情性」は感傷的なものとして否定的に見られることが多いからである。桒原は薫風川柳の抒情性を「強靭な抒情」という言葉で呼び、「脆弱な抒情」と区別して論じている。
「抒情性」の対極にあるものとして「散文性」が考えられる。川柳を考えるときに「散文性」は避けて通れない問題である。現実を直視し、現実の暗部を表現しようとするときに、散文的要素・散文精神がどうしても入り込んでくる。ある意味でそれは川柳の強みとなるかも知れない。それでは、薫風は散文的現実を見ようとしなかったのだろうか。そういう文脈で考えてみると、「川柳ジャーナル」(昭和48年12月)の句集紹介「肉眼」における石田柊馬の文章を桒原が引用しているのは大変興味深い。

〈 いつであったか、数人であるきながら、ぼくは著者にぶしつけな質問をしたことがある。
「薫風さんは芭蕉より蕪村、近代では丸山薫がお好きでしょう」
「そうやねえ。好きやねえ。それに山村暮鳥やなあ」
「薫風作品の色彩感でそれはよくわかりますよ。でも、美意識から離れたような、人と人とのふれあいの哀しみとか、もっと暗いものはお書きにならない」
「それはやっぱり、ぼくの眼の前で、今まであんまり暗すぎるやりきれんものばっかり見て来たからやろなあ、きたないものばっかり見すぎて来て―」
ぼくの筆力ではとても橘高薫風の、その口調を活字で再現できないが、とにかく、暗いきたないものを見すぎてきた、という一語が今もぼくの耳奥に在る 〉

薫風の伝記的事実には興味はないが、蕪村の句に「地獄のような現実」が詠まれていないように、薫風作品にも地獄的現実は表現されていない。けれども、「暗いきたないもの」をくぐりぬけたところに薫風作品が成立しているとすれば、それもひとつの川柳精神であろう。

第五句集『古稀薫風』以後、薫風は『師弟』『橘高薫風川柳句集』『喜寿薫風』を発行している。私が手元に持っているのは『古稀薫風』(沖積社)であるが、「あとがき」によるとこの句集を沖積社から出版したのは、「青玄」の伊丹三樹彦の紹介によるらしい。「青玄」と関西川柳界とはけっこう交流があったようだ。『古稀薫風』から抜き出しておく。

労働歌蟻が歌えば凄かろう
四面楚歌故郷は豆の花の頃
島一つ買うて暮らせば涼しかろ
勲章の欲しい七才七十才
煮凍りよ少年の日は貧しかりき
コスモスのほったらかしの美しさ
立ちたくて立ちたくて蛇木に登り
路郎忌に言葉を飾る人ばかり
喃妻よ鮎まで値切ることはない
明けましておめでとう無言電話にも
勾玉をじいは磨いているのだよ
犬小屋にペンキで窓が描いてある
富士山の藍に一礼してしまう

老年の句にもけっこうおもしろい味があるという気がする。口語音数律を基本とする川柳だが、薫風作品では文語も多用され、俳句的手法も散見される。次の代表作二句では「切れ字」が使われている。

恋人の膝は檸檬のまるさかな
人の世や 嗚呼にはじまる広辞苑

今は違う単語で始まっているようだが、かつての「広辞苑」は「嗚呼」で始まっていた。俳人であれば「人の世」の部分に季語をもってくるだろう。「かな」とか「や」の使用が気になるところだが、俳句に親しんでいた薫風にとって、切れ字の使用は自然だったかもしれない。
田辺聖子は次のように述べている。「薫風氏の句柄はつねに端正で品格がある。氏の句には『なり』『たり』『かな』など俳句風の切れ字もわりに使われるが、しかし好もしき軽みがあり、これはやはり川柳の境地であろう」(『川柳でんでん太鼓』)
桒原道夫は俳句の影響として次の句を挙げている。

頑徹な鯛の頭の骨を見よ     橘高薫風
こほろぎのこの一徹な顔を見よ  山口青邨

「鯛の頭の骨」に川柳性があると薫風は考えたのだろう。言い切ることの背後に言わなかったことがある。言わなかったことがにじみだして抒情になり、作品の品格となる。そのような作句態度が俳句的手法を導入することで果たせるものかどうかは議論が分かれるところだろう。

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