2011年4月2日土曜日

句集評ということ―『魚命魚辞』と『アルバトロス』

渡辺隆夫の句集『魚命魚辞』(邑書林)が発刊されて二ヶ月が経過した。まだ句集評はあまり出ていないようだが、「週刊俳句」204号で堀本吟と澤田澪が感想を書いている。

堀本は「 エンターテイメント川柳の大家・渡辺隆夫」として、「 渡辺隆夫の川柳を、大嫌いだという人が幾人もいるが信じられない、私は大好きである」「なぜなら、平気で悪口を言っている人には平気で悪口が言えるからだ」「 思い切って『キタナイ』ことを言う、ので、思い切って『キタナイ』と言える。この人はエロチズムよりスカトロジーの人だ」「思い切り『アホなこと』と言うので、思い切り『あんたアホか』と言える」などと述べている。

次に澤田澪は「 本気-渡辺隆夫第五句集『魚命魚辞』読後評-」で、句集のあとがきに「次回こそオッタマゲルゾ」と予告してあるが、「充分にオッタマゲた。すこぶるオッタマゲである」と述べている。句集の題名自体がパロディであり、タブーをおかすものであることを指摘したあと、隆夫川柳のおもしろさについて次のようにいう。
「季語があって五七五だから俳句なのか、それとも川柳句集だから川柳なのか。もう、そんなことはよく分からない」「渡辺隆夫作品が面白いのは言葉や表現という目に見えるものだけではない。余裕がある。一句の姿勢にゆとりがあるため、こちらは油断する。油断しても許してくれる」「渡辺隆夫の魅力はその面白さにあり、それは前述のように『王様は裸だ』と言ってしまうような子どもの残虐なまでの純真さと『実は僕も裸だ』と言ってしまうようなワンパクさにあり、それを視点のユニークさと表現の確かさが支え、それらはゆとりをもって形成されている。」

2人とも取り上げているのは「ブリューゲル父が大魚の腹を裂く」という巻頭句。句集の序文で森田緑郎が指摘しているように、「秋の暮れ大魚の骨を海が引く」(西東三鬼)を連想させるが、堀本は「それはただしい鑑賞法なのだろうか?又、事実的に三鬼のマネだったとしてもソレガどうした、トイエル」と述べている。その上で、三鬼との違いは、「三鬼の句は風景の面白さ。隆夫の句は、風景のなか中の行為のおもしろさ」だという。「三鬼の観念の風景、隆夫の観念の行為。川柳俳句の振り分けは別として、表現の本道の知的作業にもとづくもので、渡辺隆夫は、その本道にしたがって、極めて知的に通俗川柳(市民に差し出すエンターテイメント)の文体をつくっている。その通俗性はますます洗練されている」
一方、澤田は「隆夫句と三鬼句はともに魚という命の名残・残骸を詠んでおり、それが秋と呼応して全体としての詩を生み出している。ただ隆夫句には三鬼句にはないものを強烈に感じる」という。

以上は俳人が読んだ『魚命魚辞』の感想であるが、川柳人による句集評はまだ見かけない。川柳界で句集評が出にくい傾向があるのは、そもそもこれまで句集が発行されることが少なかったからである。いささか過去のことになるが、山村祐は「句集は墓碑銘ではない」という文章で次のように述べている。

「わが川柳界で昨年中何冊の句集が出版されたか、何冊の柳論集が出されたであろうか。少くとも十年二十年川柳を創ってきた人に一冊の句集もないことは、決して誉められたことではない。聞くところによると、一生に一冊の句集を出したいという言葉を吐く人があるそうである。もちろんそれは各人の自由には違いない。しかし、大家に納って、自分の墓を造るような気持で、豪華な句集一冊を残すような気風があるとしたら大へん悲しいことである」(1957年2月「天馬」2号、『短詩私論』所収)

現在では情況が変わってきて川柳句集も随分刊行されるようになってきたが、出された句集に対する評価という作業がまだ等閑にされている。

句集を読んだ読者の受け止め方はさまざまである。すぐには言葉にならない感想というものもあって、それはそれで大切なことだろう。読書界には書評というシステムが成立し、上梓された作品や句集に対する批評と紹介の役割を果たしている。そこには当然、無視や黙殺というかたちの最も厳しい評価もあるわけだ。複数の書評が出た場合、それらを一冊の「ブックレビュー」にまとめる場合もある。
短歌界ではいつからか(80年代くらいからだろうか)、歌集に対する批評会が開かれるようになった。そのような歌集の批評会に私も行ってみたことがあるが、なかなか厳しいものである。儀礼的なお祝い気分ではなくて、歌集の弱点があばかれ、場合によっては罵倒される。歌集を出して、なぜこれほど批判されなければならないか、落ち込む作者もいると聞く。けれども、それは作品評であって、作者の人格を否定しているわけではないのだ。その区別がきちんとしているから、悪評は次のステップに進むための糧となる。
川柳界では儀礼的な出版記念会はたくさんあるが、このような意味での句集の批評会がなされたことを寡聞にして聞かない。該当するのは樋口由紀子の『容顔』出版記念会(1999年8月)くらいだろうか。

さて、句集に対する評は時間がたってから現われることがある。
「船団」88号(2011年3月)掲載の芳賀博子による丸山進句集『アルバトロス』(風媒社)にたいする評もそのひとつである。『アルバトロス』は2005年9月の発行。「セレクション柳人」(邑書林)の刊行がはじまったのと同じ年である。アルバトロスは「あほうどり」という意味で、あとがきによると〈「アルバトロス」は漢字では「信天翁」とも書き、おめでたい雰囲気があるし、ゴルフ用語ではイーグルの更に上の奇跡に近い一打というラッキーな意味もある〉ということだ。
芳賀が挙げているのは次のような句である。

中年のお知らせですと葉書くる
つまらない物を分母に持ってくる
酒飲むとけものの匂いする手足
鑑定をしてもやっぱり柿の種
父帰る多肉植物ぶら下げて

丸山の代表作(と私が思っている)「追い詰められてブラジャーの真似をする」が入っていないのが少し残念。『アルバトロス』に対する読者の反応は次のようなものだったという。

「興味深いのは読者のリアクションが時に対照的だったこと。近年の現代川柳の詩性に走り過ぎる傾向を案じたり、警戒したりしていた人たちは『やっぱり川柳はこうでなくっちゃあ』とニンマリし、サラ川や時事川柳の類かと気軽に手に取った人たちは『おっと、川柳ってこうだったの!?』と不意打ちをくらったかのようだった」

芳賀は丸山の川柳を「サラリーマン川柳」とは言っていないが、「サラリーマン川柳に注目している」という書き出しに続いて句集『アルバトロス』を取り上げ、「中年サラリーマンの悲哀」という紹介の仕方をすると、丸山の作品は「サラリーマン川柳」そのものだと読者に受け取られかねない。丸山の作品は「サラリーマン川柳」の要素と同時にそれを超克する要素という二面性を持っている。たぶん芳賀もそういうことを言いたかったのだろう。『アルバトロス』には「しおり」が付いていて、荻原裕幸は「時事川柳ともサラリーマン川柳とも似て非なる丸山進的な文体は、笑いのあるなしにかかわらず、現実を歪曲はしないけれどもどこかに救いと呼びたくなるような快い感触を添えて手渡してくれる」と書いている。
丸山の作品が常に「サラリーマン川柳」との関連と距離という文脈で紹介されるのは、彼にとって幸でもあり不幸でもあるのだろう。

芳賀は『アルバトロス』以後の作品も3句紹介している。

折れてくれ折れ線グラフなのだから
彼岸過ぎ三遊間が空いている
旧石器時代のような愛し方

「彼岸過ぎ」の句は「川柳みどり会」の「第17回センリュウトーク」(2008年)で天位を取った作品。この3句は丸山の現在の句境をよくあらわしている。
市井に生きる人間の哀歓を手放すことなく、それを超克する契機をも含んでいる丸山進の川柳は、『アルバトロス』以後どのような方向に向かっていくのだろうか。

生きてればティッシュを呉れる人がいる   丸山進

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