2018年1月12日金曜日

川柳を売るということ―文フリ京都をひかえて

年末年始、ケーブルテレビでドラマの再放送を何本か見たが、その中で「重版出来」がおもしろかった。黒木華が演じる新米社員がコミックの出版社の編集部に配属され、漫画家の担当になったり書店を回ったりする。元気な彼女に影響されて、「幽霊」というあだ名のやる気のない営業担当が本気になってゆく話など、夢物語だと思いつつ引き込まれるところがあった。よい作品が必ず売れるとは限らないが、編集者と営業と書店の店員が連携すれば、本は読者に届くというのである。「重版出来(じゅうはんしゅったい)」というのは売り上げが伸びた本の再版が决まることを言うらしい。逆に、売れ残った本が工場で裁断されてゆく場面もあった。

従来、川柳の同人誌は販売ということを考えていなかった。
同人は同人費を払って作品を掲載してもらい、掲載誌を受け取って満足するというシステムで、一般読者に読んでもらう機会というのは少ない。購読者は「誌友」と呼ばれて、会費を払うことでその同人誌を支援するのである。雑誌経営はおおむね赤字である。
純粋読者が存在しないから、作品は他者としての読者が読むのではなく、作者自身や周囲の川柳人がおもしろいと思うような作品であれば良いのである。
柳誌を販売しようとすれば、ます一般読者が読んでもおもしろいような作品と文章を掲載する必要がある。販売できるだけの内実が必要となるのだ。
結局、どのような読者を想定して柳誌を発行するかという問題で、同人・会員を主とするか、川柳や短詩型文学に関心をもつ一般読者をターゲットとするか、両者を折衷した中間的な川柳誌とするかの選択を迫られる。もし、売ることだけを目的とすれば、大衆的な川柳誌になる。
以前、若手の歌人だったか俳人だったかが、「私の書くものは作品であると同時に商品だ」というようなことを書いているのを読んで、反発を感じたことがあるが、それはそれでひとつの覚悟を示していたのだろう。

句集の場合はどうかというと、贈呈が中心であり、不特定多数の読者が書店で川柳句集を買うというルートはほぼ存在しない。
まず、句集を発行するところにハードルがあって、かつては短歌・俳句なら出すが川柳句集は出さないという出版社が多かった。現在は川柳句集を発行する出版社も少数ながら存在するのでありがたい。
主な川柳本を紹介しておくと―
川柳アンソロジーとして『現代川柳の精鋭たち』(北宋社・2000年)が便利だったが、この出版社はもう存在しない。句集シリーズとしては邑書林の「セレクション柳人」(全20巻・ただし一部未刊)が比較的手に入りやすい。別冊として『セレクション柳人』も発行されていて、現代川柳論に興味のある方は読んでいただきたい。あと、「あざみエージェント」が川柳句集を出しており、左右社から「かもめ舎川柳新書」、東奥日報社から「東奥文芸叢書・川柳」が出ている。飯塚書店からは田口麦彦の『フォト川柳への誘い』『アート川柳への誘い』『スポーツ川柳』など。川柳ハンドブックとしては『現代川柳ハンドブック』(雄山閣)、事典としては『川柳総合大事典』(雄山閣、ただし4巻のうち2巻のみ出版)がある。あと、三省堂から『新現代川柳必携』『現代川柳鑑賞事典』『現代川柳女流鑑賞事典』が出ている。
手に入りやすいのは、『15歳の短歌・俳句・川柳』(ゆまに書房)で、この本の川柳の部分からおもしろいと思った川柳人の他の作品へと関心を広げてゆくのがよいと思う。
このように川柳関係の書籍は絶無ではないが手に入りにくいので、過去の資料を調べようとすれば国会図書館や関西では大阪市立中央図書館へ行くしかない。岩手県北上市の現代詩歌文学館にも川柳資料がある。

川柳を売るということに話を戻すと、書店を通じた流通があまり期待できない現状では、「文学フリマ」などで直接販売するのもひとつの方法である。1月21日の「第二回文フリ京都」には「川柳スパイラル」として出店するが、これは「川柳界から唯一の出店」である(このフレーズは毎回繰り返しているが、状況は変わらない)。なぜ川柳の出店が他にないかというと、高齢化している川柳人は若い人々が多く集まる文フリの存在を知らないか、知っていても関心がないからである。出店してもあまり売れないので、文フリに出店するくらいなら大規模な川柳大会で本を直接販売した方が目先の効率はよいということになる。
では川柳のフリマに特化して実施すればいいのではないか。そう思って、私は2015年・2016年に「川柳フリマ」を二回実施した。川柳本を出版している数社の協力をえ、ゲストに歌人を招いて対談も行い、川柳人以外にも関心がもてるようなイベントになるよう心がけた。ある程度の人数が集まり、本も少しは売れたのだが、出店料を抑え出店数もそれほど多くなかったので会計的に黒字にはならなかった。慈善事業では続けることができない。
今回の文フリ京都では「川柳スパイラル」創刊号や『川柳サイドSpiral Wave』『水牛の余波』などの川柳句集、川柳誌のバックナンバー、「タナトス」などのフリーペーパーを並べる。2ブース借りているので、川柳資料(非売品)も若干展示するスペースがある。私は連句人でもあり、『浪速の芭蕉祭・入選作品集』などの連句冊子も置く予定。「川柳と連句の店」の看板を掲げようと思っている。
本が売れなくても(売れればもちろん嬉しいが)、来場の方々には川柳の話をしに気軽にブースに来ていただきたい。

最後に、冒頭に書いたような本屋さんとの連繋について。「重版出来」は夢物語だが、最近では川柳に対して好意的な本屋さんもあるので、ルートを拡げる努力はしてゆきたい。
これまで川柳の流通は「投壜通信」のイメージで、孤島から壜に入れた手紙を流すようなものだったが、近ごろようやく普通郵便程度のイメージがもてるようになった気がする。

2018年1月5日金曜日

「玄関の覗き穴」と「母性のディストピア」

年末年始は「逃げ恥」の再放送や高麗屋三代襲名のテレビを見ていて、あまり本や雑誌を読めなかったが、管見に入ったあれこれを書き留めておきたい。

木下龍也と岡野大嗣の歌集『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』(ナナロク社)のサイン会、あちこちで開催されているようだが、12月29日の葉ね文庫の会に行ってみた。岡野には2016年7月に飯田良祐句集『実朝の首』を読む会にゲストとして来てもらったことがある。
午後7時過ぎに行くと、すでに葉ね文庫はサインをしてもらいに来た人々でいっぱいだった。二人の歌人の人気おそるべし。
歌集は「男子高校生ふたりの七日間をふたりの歌人が短歌で描いた物語、217首のミステリー」という設定で、7/1から7/6までの日付別になっている。二人が交互に詠んでいる章、木下だけの章、岡野だけの章など変化をもたせている。作者がある人物を借りて詠む「成り代わり」の歌は前衛短歌以後ときどき見かけるが、男女の相聞ではなくて、高校生ふたりの成り代わりというのは新鮮な気がした。物語性もあり、7/1・7/2・7/3・7/4と時間の順に進んだあと7/7が挿入され、遡行して7/5・7/6になって終わるという構成になっている。7/7に何かの出来事があったことが暗示されている。
おもしろい歌が多かったが、二首ずつ紹介しておく。

消しゴムにきみの名を書く(ミニチュアの墓石のようだ)ぼくの名も書く 木下龍也
まだ味があるのにガムを吐かされてくちびるを奪われた風の日

目のまえを過ぎゆく人のそれぞれに続きがあることのおそろしさ    岡野大嗣
近づいて来ているように見えていた人が離れていく人だった

私も列に並んで岡野と木下にサインをしてもらったが、岡野が飯田良祐のことを話してくれたのが嬉しかった。岡野がサインしてくれた短歌と飯田良祐の川柳を並べて書いておきたい。

倒れないようにケーキを持ち運ぶとき人間はわずかに天使   岡野大嗣
天国へいいえ二階へ行くのです               飯田良祐

「現代詩手帖」1月号、短歌時評は瀬戸夏子、俳句時評が外山一機の担当になった。
この二人の時評を同時に読めるとは贅沢なことである。
瀬戸の時評は木下龍也の短歌を取り上げている。木下は「あなたのための短歌」ということで、短歌の販売をしている。依頼があれば依頼者ひとりのために短歌をつくって送るというやり方である。時評では瀬戸が木下に依頼した短歌が紹介されている。短歌総合誌を取り上げるのではなく、こういうところから時評をはじめるのはいかにも瀬戸夏子らしい。
外山の俳句時評はBL俳句誌「庫内灯」3号を取り上げている。BL読み・百合読みについては語られることが多くなったが、外山が特に注目したのは中山奈々の文章である。中山は「百鳥」「里」の若手俳人で、昨年話題になった「早稲田文学・女性号」にも作品を発表している。「庫内灯」3号は1月21日の「文フリ京都」でも出店・販売されるはずである。
瀬戸も外山も昨年は角川の「短歌」「俳句」で時評を担当したが、今年は「現代詩手帖」という媒体で、狭い意味での歌壇・俳壇の枠を超えたところで書いている。これからも時評が楽しみだ。

年末年始は宇野常寛の『母性のディストピア』(集英社)を読んでいた。
宮崎駿・富野由悠季・押井守などについてのアニメ論が中心だが、ベースにあるのは「政治と文学」である。
「政治と文学」論や江藤淳の『成熟と喪失』は私にもなじみがある。個々のアニメについてはあまり見ていないので理解できない部分もあったが、ロボット・アニメの歴史や「海のトリトン」の後味の悪い最終回のこと、いまよく使われる「黒歴史」という言葉の由来など、いろいろ分かった。
本書の前提となるのは「虚構=仮想現実の時代」から「拡張現実の時代」へという時代認識である。

「グローバル/情報化が進行した今日において機能している反現実は、現実の一部を虚構化することで拡張するいわば〈拡張現実〉的な虚構だ」

インターネットは現実と切断された仮想現実を構築するものでも、複雑な現実を整理統合するものでもなく、モノと人を虚構を経由することなく直接つなぐものであり、虚構ではなく現実と結託するものだと宇野は言う。虚構と現実の関係は決定的に変化したのであり、「あらゆる虚構が現実から独立し得なくなったいま、批判力のある虚構はどうあるべきか」というのが彼の問題意識である。

最後に畏友・野口裕の第一句集『のほほんと』(まろうど社)を紹介しておきたい。
野口とは2006年から2011年まで「五七五定型」という二人誌をいっしょに出していて、俳句・川柳という分け方ではなく、「五七五定型」という視点から何ができるかという発想で5号まで発行した。野口は「俳人」と呼ばれることを嫌う。私は野口のことはよく知っていると思っていたが、句集では私の知らない彼の作品も多く、おもしろく読んだ。

蒼白と塗られ一つ目の木が燃える     野口裕
飛ぶ蝉が緑陰の葉に突き当たる
生きものよ鏡の向こう こちら側
川に聞く泡のまわりは水なのか
マスクして動物臭をたしかめる
空蝉に蝉が入ってゆくところ

表紙絵は彼の子息・野口毅によるもの。前述の「五七五定型」5号の表紙にも同じ絵が使われている。

2017年12月29日金曜日

2017年・今年の10句

今年もあと数日を残すのみとなった。
今年はどのような川柳作品が書かれ発表されたのか。
印象にのこった10句を挙げてみる。例年通り極私的なものであることをお断りしておく。

ソマリアのだあれも座れない食卓   滋野さち

川柳杜人創刊70周年記念句会(2017年11月4日開催)から。「川柳杜人」256号、宿題「席」(高橋かづき選)に掲載。
内戦・難民・海賊などソマリアについての断片的なニュースは入ってくるが、日本のテレビはアフリカ諸国の紛争についてあまり取り上げることがない。部族対立や周辺国との関係、国連の介入の不成功など、さまざまな経緯があって現在も混乱状態が続いているようだ。
食卓は人間生活にとって欠かせないものである。そこに人が集まり、食事をする。食べるものが食べられるということが平和の第一歩なのである。
掲出句は食卓に焦点をしぼり、そこに「だあれも座れない」現実を見据えている。川柳で時事句はたくさん書かれているが、批評性と文芸性を兼ね備えた作品を書くことはむつかしい。掲出句は今年の秀句の第一に挙げたい。

愛咬の顎は地上に出られない     清水かおり

「川柳木馬」154号(2017年11月)掲載。
「愛咬」の語、川柳では「愛咬やはるかはるかにさくら散る」(時実新子)が有名。清水かおりがこの語を使ったのがまずおもしろいと思った。
もちろん清水の場合は情念句ではない。「愛咬」→「顎」のア音によって一句が成立していて、「愛咬」は「顎」を導き出すための枕詞的な働きをしている。意味の中心は「顎は地上に出られない」にあるだろう。一種の閉塞感である。
「川柳木馬」は9月に亡くなった海地大破の追悼号になっている。

黙ってな声に出したら消されるよ   樹萄らき

「川柳サイドSpiral Wave」2号(2017年9月)掲載。
樹萄らきは伊那在住の川柳人。その気っぷのよい作風にはファンが多い。
川柳誌「旬」「裸木」などに作品を発表しているが、「川柳サイドSpiral Wave」2号で30句まとめて読むことができる。
「おばさんはカッコイイのさ 認めろ」「小童め傷つかぬよう必死だな」などの句もおもしろいが、掲出句は特に諷刺や皮肉が効いている。
女性たちが声をあげるようになってきた現状、まだまだ声をあげにくい現状がせめぎあっている。

モハでキハでキンコンカン兄貴   酒井かがり

「川柳サイドSpiral Wave」2号(2017年9月)掲載。
酒井かがりは今年関西で活躍の目立った川柳人のひとりだ。
家族をテーマにした連作のなかの一句で、兄については「煙たなびく月刊兄貴」「強剪定の果ての棒っきれ兄貴」「勝手口で待つノック式兄貴」などがあるが、掲出句は意味がわからないけれど何だかおもしろくて記憶に残る。

必ず暗くなるので夜を名乗らせて  我妻俊樹

「SH4」(2017年5月)掲載。
我妻俊樹は歌人で怪談作家としても活躍。「率」10号には誌上歌集『足の踏み場、象の墓場』を掲載。最近ではネットプリントで小説「天才歌人ヤマダ・ワタル」を発表して短歌界を諷刺している。「SH」は瀬戸夏子と平岡直子が発行している川柳作品集で4号は5月の文フリ東京で発売された。掲出句は「迷子たちのためのチャリティ」30句から。
「路線図を塗り分けたのち虹となる」「見るからにキャラメルだけがきみの過去」など飛躍感と言葉の斡旋の仕方や言語感覚が心地よい。
他ジャンルの表現者が川柳作品を書く機会が徐々に増えてゆくことと思われるが、川柳側もそれを受けとめるアンテナを常に出しておきたい。

そりゃあ君丹波橋なら韮卵     くんじろう

「川柳カード」14号(2017年3月)掲載。
丹波橋は近鉄線・京阪線の駅名。固有名詞(地名)を用いた川柳である。
ただ、この地名は和歌における歌枕のような具体的なイメージを喚起しない。
しかも、いっそうわかりにくくしているのが「韮卵」との関連性である。
「そりゃあ君」と言われても挨拶に困るのだ。
けれども、この句のおもしろさはそこにある。「丹波橋」と「韮卵」がこの句のなかで一回的に結びついた、その断言の魅力といったらよいだろうか。
掲出誌では入交佐妃がこの句に柵の上にとまっている小鳥の後ろ姿の写真を添えていて、コラボのおもしろさが生まれる。

たぶん彼女はスパイだけれどプードル     兵頭全郎

「川柳スパイラル」創刊号(2017年11月)掲載。
タイトルは〈『悲しみのスパイ』小林麻美MVより〉となっている。
小林麻美はある世代より上の年齢の読者にはよく知られている名前だ。
「雨音はショパンの調べ」とか巷に流れていた。
兵頭全郎は作句の触媒となるものをまず設定して、そこから作品を書くことが多いから、連作のかたちをとる。「悲しみのスパイ」が題(前句)となるのだ。
固有名詞はイメージを喚起しやすいが、このタイトルを外して読んでもさまざま自由な読みが可能だろう。タイトルにひっぱられ過ぎない方がおもしろいかもしれない。

電あ波い脳す波る波こ長と血     川合大祐

「川柳スパイラル」創刊号掲載。
表現の前衛性の背後にメッセージがこめられている。
「波」のつく熟語を並べているのだが、その間にはさまれている平仮名に意味がこめられているようだ。
あいすること電波脳波波長と血。

毎度おなじみ主体交換でございます   飯島章友

「川柳サイドSpiral Wave」1号(2017年1月)掲載。
廃品回収のパロディだが、一句の眼目は「主体交換」にある。
従来川柳は自己表出だと思われてきたが、その表出すべき「主体」が簡単に交換されてしまうようなものだとすれば、表現の根拠は崩壊してしまう。即ち「主体」こそ不安定きわまりないものなのだ。
そのような現代の状況を「重くれ」ではなく「軽み」で表現している。「猫の道魔の道(然れば通る) だれ」の方が作品としてはおもしろいかもしれないが、あえて掲出句を選んでおく。

ほんとうに、ほんとうに、ながいたたかいに、なる  柳本々々

「川柳の仲間 旬」212号(2017年7月)掲載。
「本当に本当に長い戦いになる」は散文だが、全部平仮名にして読点を打つことによって作品にしている。散文と川柳の関係はとても微妙だ。
私の世代は「言葉」から川柳を書く傾向が強くて、それは次の世代にもある程度受け継がれていると思うが、柳本の作品にはメッセージ性というか、何か人生論的なものを感じる。
「たたかい」と言うならば、何とたたかっているかというと、虚無とたたかっているのである。

では、よいお年をお迎えください。
来年もよろしくお願いします。

2017年12月22日金曜日

諸誌逍遥(2) ― 11月・12月の川柳・短歌・俳句

ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ     なかはられいこ

「WE ARE!」第3号(2001年12月)に掲載された作品である。当時も話題になったが、いまこの句が再び評価されている。
「俳句界」12月号の特集「平成俳句検証」で「平成を代表する句」として筑紫磐井と橋本直の二人が取り上げているのだ。

〈9.11テロをこんな美しく衝撃的に詠んだ句はないだろう。この状況は現在も続いている。(作者は川柳作家)〉(筑紫磐井)
〈具体的には「9.11」の映像を喚起させつつ、当の言語表現をふくめ様々なものの壊れる時代そのものをあらわしているように見える〉(橋本直)

すぐれた作品は時間を超えて語り継がれるということは心強い。

「豈」60号は先週紹介したが、第4回攝津幸彦記念賞は最優秀賞なしとなったようだ。優秀賞8名と若手推薦賞3名が選ばれている。詳細は「豈」次号61号で発表される。
句集の書評もたくさん掲載されている。中村安伸『虎の餌食』を倉坂鬼一郎が、岡村知昭『然るべく』を堺谷真人が書いていて、5月にこの二冊の句評会に行ったことを思い出した。
あと、北川美美が「吉村毬子に捧げる鎮魂」の句を発表している。吉村は今年7月に急逝した。吉村の句と北側の追悼句を並べておく。

金襴緞子解くやうに河からあがる    吉村鞠子
毬の中土の嗚咽を聴いてゐた
水鳥の和音に還る手毬唄

脱ぎなさい金襴緞子重いなら      北川美美
バスを待つ鞠子がそこにゐたやうな
茅ヶ崎の方より驟雨空無限

上田真治句集『リボン』(邑書林)が刊行されて話題になっている。

中くらゐの町に一日雪降ること    上田真治
水道の鳴るほど柿の照る日かな
紅葉山から蠅が来て部屋に入る
絨毯に文鳥のゐてまだ午前
夢のやうなバナナの当り年と聞く
海鼠には心がないと想像せよ
上のとんぼ下のとんぼと入れかはる

栞は中田剛・柳本々々、依光陽子が書いている。中田は上田のリボンの句から波多野爽波の句を思い浮かべている。

リボン美しあふれるやうにほどけゆく    上田真治
冬ざるるリボンかければ贈り物       波多野爽波

柳本は「今走つてゐること夕立来さうなこと」を挙げて上田俳句を「走る俳句」ととらえている。依光は「変わらないものを変えてゆく何か」というタイトルで「世界がこんなにも予定調和から遠く豊かだったかと驚愕する」と述べている。
「里」に連載されている「成分表」は私も愛読している。日常の出来事に対する独自の見方のあとに一句が添えられていて毎回新鮮だ。
『りぼん』の「あとがき」で彼はこんなふうに書いている。

〈さいきん、俳句は「待ち合わせ」だと思っていて。
言葉があって対象があって、待ち合わせ場所は、その先だ。〉
〈いつもの店で、と言っておいてじつはぜんぜん違う店で。
あとは、ただ、感じよくだけしていたい。〉

今年の角川短歌賞は睦月都の「十七月の娘たち」が受賞した。
朝日新聞の「うたをよむ」(12月4日)の欄で服部真里子は睦月の次の歌をとりあげて、「言葉を短歌の形にするのは、宝石にカットを施すようなものだと思う」と書いている。

悲傷なきこの水曜のお終ひにクレジットカードで買ふ魚と薔薇   睦月都
きららかに下着の群れは吊るされて夢の中へも虹架かるかな

文芸別人誌「扉のない鍵」(編集人・江田浩司、北冬舎)が発行されている。同人誌ではなくて、別人誌である。江田の創刊挨拶に曰く。
「本誌は同人誌とは異質なコンセプトで集まった、[別人]三十人によって創刊された雑誌です。別人各自にジャンルの壁はありません。それは、創作の面においても同様です。また、別人同士の関係性も考慮しておりません。別人誌というコンセプトに賛同した者が集まり、相互の力を結集して作り上げる文芸誌です」
掲載作品には短歌が多いようだが、現代詩・小説・エッセイ・評論と多彩だ。特集「扉、または鍵」というテーマらしきものはあるが、それぞれ別々に好むところで表現しているのだろう。

まだ解けないままに残されなければならないように汝へ降る問い  小林久美子
當らうか 一點透視のホームへと電車擴大してくる咄嗟      堀田季何
指といふ鍵を世界に可視化せよ 蜂の巣といふ鍵穴深く      玲はる名

今年もあと残り少なくなった。
「触光」(編集発行・野沢省悟)55号、「第8回高田寄生木賞」を募集している。前回に続き「川柳に関する論文・エッセイ」について選考する。川柳界では唯一の評論賞といえる。締切は2018年1月31日。多数の応募があれば川柳の活性化につながると思う。

2017年12月15日金曜日

諸誌逍遥 ―11月・12月の川柳・短歌・俳句

時評をしばらく休んでいるうちに、相手取るべき雑誌や句集がたまってきた。
川柳はそれほどでもないが、俳句や短歌は活発に動いていて多岐にわたるので、駆け足で見ていこう。

「川柳木馬」145号は今年9月12日に亡くなった海地大破を追悼している。
清水かおりの巻頭言、古谷恭一の「海地大破・追想~人と作品~」のほか、海地大破作品集として154句を収録している。

蝉の殻半身麻痺のてのひらに      海地大破
たましいが木の上にあり木に登る
短命の家系をよぎる猫の影
とても眠くて楽譜一枚書き漏らす
夜桜に点々と血をこぼしけり

大破は「木馬」の精神的支柱であるだけではなく、全国の多くの川柳人にとっても心の支えだったと思う。
彼のあとを継承する「木馬」同人の作品から。

熟れ過ぎてここには翼つけられぬ    岡林裕子
ほんとうに求めるときは手動です    内田万貴
ここに来てここに座って木霊きく    大野美恵
愛咬の顎は地上に出られない      清水かおり
ゼラニューム手のかからない娘であった 川添郁子

11月の文フリ東京には行けなかったが、共有結晶別冊『萬解』を送っていただいた。
「俳句百合読み鑑賞バトル」「短歌鑑賞」から構成されている。BL読みがあるなら百合読み(GL読み)もあればおもしろいということらしい。短歌では山中千瀬や瀬戸夏子の作品が取り上げられている。

恋というほかにないなら恋でいい燃やした薔薇の灰の王国  山中千瀬
スプーンのかがやきそれにしたって裸であったことなどあったか君にも僕にも 瀬戸夏子

穂崎円は瀬戸の作品を次のように鑑賞している。
「感傷の甘ったるさや後悔の苦さはない。ただ今、スプーンの光に目を奪われ呆然としている僕がいるばかりだ。一度不在に気付いてしまったら、そうではなかった頃の自分に二度と戻れはしない」

「かばん」12月号は谷川電話歌集『恋人不死身説』の特集。

真夜中に職務質問受けていて自分が誰か教えてもらう      谷川電話
会いたいと何度祈ったことだろう 電車の窓にだれかのあぶら
恋人は不死身だろうな目覚めると必ず先に目覚めてるし

歌集評を木下龍也・初谷むい・佐藤弓生・柳本々々、山田航が書いている。
初谷むいは「すべて変わっていくこの世界の中であなただけが不死身であるということ」で、この歌集の「恋人のいる世界①」→「恋人のいない世界」→「恋人のいる世界②」という変遷をていねいに論じている。
柳本々々の「水の移動説」は「恋愛とは水の移動である」という説をとなえるが、これは「川柳スパイラル」創刊号における柳本の「竹井紫乙と干からびた好き」と表裏をなしている。谷川の短歌の水と竹井紫乙の川柳「干からびた君が好きだよ連れてゆく」を対照的にとらえているのだ。

「豈」60号の特集「平成29年の俳句界」。平成生まれの川嶋健佑が挙げているのは次の作品である。

青林檎からしりとりの始まりぬ     小鳥遊栄樹
遠足の終はりの橋の濡れており     黒岩徳将
会いたいな会いたくないなセロリ食う  天野大
春愁は三角座り、君が好き       山本たくや

一方、大井恒行は特集「29歳の攝津幸彦」で平成29年の29歳の俳人を「俳句年鑑」で調べたところ次の三人が見つかったという(「現在の29歳の俳人たち」)。

遠足の列に呑まれているスーツ     進藤剛士
朝焼けの象と少年泣きやめよ      山本たくや
蟬しぐれ自傷のごとく髪を染め     ローストビーフ

その上で大井は29歳のころの攝津幸彦たちの世代について振り返っているのだが、なかなか興味深い。

他にも紹介したいものがあるが、今回はこのへんで。

2017年10月27日金曜日

THANATOS ― 石部明没後5年

石部明は2012年10月27日に亡くなったから、本日はちょうど没後5年に当たる。
川柳人の作品は作者がいなくなると同時に風化し、忘れ去られてゆくのが常であるが、石部の作品は没後も読み継がれ、語り継がれるだけの内実をもっている。
石部の作品を読み直すひとつの契機として、八上桐子と私で「THANATOS」というフリーペーパーを発行している。第一号が2015年9月、第二号が2016年9月、第三号が2017年9月にそれぞれ発行されている。石部明の作品50句選と石部語録、あと石部論が二本という簡便なものだが、けっこう準備には手間がかかっている。年一回発行で次の四期に分けて石部明の川柳を読み解こうとしている。

第一期 1977年~1986年(38歳~47歳) 「マスカット」「展望」
第二期 1987年~1995年(48歳~56歳) 「川柳塾」「新思潮」『賑やかな箱』
第三期 1996年~2002年(57歳~63歳) 「川柳大学」「MANO」『現代川柳の精鋭たち』『遊魔系』
第四期 2003年~2012年(64歳~73歳) 「バックストローク」「Field」

資料収集については、たとえば「THANATOS 1/4」(第一期)の「マスカット」は小池が、「展望」については八上が担当し、雑誌掲載作品を調べたうえで、50句を選出している。「マスカット」「川柳塾」の資料は前田一石に提供を仰ぎ、石部の自伝「私の歩んだ道」(「ぜんけんそうれん」連載)については石田柊馬からコピーをいただいた。
雑誌に発表された初出の句を読んでいると、句集における完成形とはまた違った姿を垣間見ることができ、石部の作句のプロセスが納得されたり、いろいろな発見がある。詳しいことは「THANATOS」を読んでいただきたい。
石部明が「死」をモチーフにしたのはなぜだろうと以前から考えていたが、彼に影響を与えた川柳人が存在するように思われる。「THANATOS 1/4」で私は平野みさと行本みなみの名を挙げておいた。最近になって、石部に影響を与えた川柳人として、海地大破の存在が大きいのではないかと思うようになった。大破の川柳に「死」のモチーフが頻出することは、このブログの10月6日の文章で触れておいた。
さて、石部明の川柳活動は作品の発表だけではなくて、川柳をさまざまなイベントと連動させているところが特徴的である。「シンポジウム+大会」という形態は今では特に珍しくはないだろうが、「バックストローク」時代に彼が強力に推し進めたものであり、「バックストロークin ~」と銘打って各地で開催されたのであった。「THANATOS 2/4」では「おかやまの風・6」について、「THANATOS 3/4」では「川柳ジャンクション」について触れている。
「THANATOS 3/4」は「バックストローク」創刊の手前で終っている。来年の「THANATOS 4/4」では石部明をどのようにとらえたらよいだろうか。こういうささやかなフリーペーパーであっても、回を重ねるにつれて書くのが苦しくなる。同じことばかり繰り返しても仕方がないからだ。石部明のことを偲びつつ、ゆっくり考えていきたいと思っている。
最後に石部明の句を30句載せておく。忘れないことが大切だ。

琵琶湖などもってのほかと却下する
チベットへ行くうつくしく髪を結い
月光に臥すいちまいの花かるた
アドリブよ確かに妻をころせたか
バスが来るまでのぼんやりした殺意
穴掘りの名人が来て穴を掘る
梯子にも轢死体にもなれる春
水掻きのある手がふっと春の空
神の国馬の陣痛始りぬ
雑踏のひとり振り向き滝を吐く

軍艦の変なところが濡れている
国境は切手二枚で封鎖せよ
かげろうのなかのいもうと失禁す
性愛はうっすら鳥の匂いせり
男娼にしばらく逢わぬ眼の模型
栓抜きを探しにいって帰らない
鏡から花粉まみれの父帰る
ボクシングジムへ卵を生みにゆく
息絶えて野に強靭な顎一個
舌が出て鏡の舌と見つめあう

オルガンとすすきになって殴りあう
死者の髭すこうし伸びて雪催い
鳥かごを出れば太古の空があり
死ぬということうつくしい連結器
一族が揃って鳥を解体す
どの家も薄目で眠る鶏の村
わが喉を激しく人の出入りせり
轟音はけらくとなりぬ春の駅
入り口のすぐ真後ろがもう出口
縊死の木か猫かしばらくわからない

2017年10月20日金曜日

『天の川銀河発電所』のことなど

「里」175号の特集「天の川銀河は銀色なのか」は『天の川銀河発電所』について、「里」の同人を中心に取り上げている。
青山ゆりえの総論のあと、「里」の同人で『天の川』に入集している佐藤文香(論者・田中惣一郎)・中山奈々(論者・喪字男)・堀下翔(論者・小鳥遊栄樹)の三人についての作家論が続く。たとえば田中はこんなふうに書いている。

「第一句集出版以後の佐藤の活動は多様であった。現代短歌の、主に同世代の作品に親しみ、その頃は短歌界隈のシンポジウムなどにも観客として、時に登壇者としてしばしば参加していた。また写真表現にも目を向け、写真家との交流も一時は深くあった。そんな日々の中で、なぜ、俳句なのだろうか、と自問しなかったはずはないだろう」

『天の川』の関連イベントはいろいろあるようだが、10月7日、梅田のルクアイーレの蔦屋書店で開催された「トークイベント&サイン会」に出かけた。ゲストの正岡豊の話を聞くのが楽しみだった。
佐藤は以前「里」で「ハイクラブ」という選句欄を担当している(2013年)。その8月号で彼女は正岡の句を選んでいる。

夜よさてみずうみと入れ替わろうか   正岡豊

トークイベントの当日、佐藤が配った「ハイクラブ」のコメントがおもしろいので、紹介してみる。

「前回のつづきのようですが、自分のいいと思う俳句が説明できてしまうことを恐れています。というか、『いい!』と思うものについて、簡単に説明しきれてしまうようなら、それは自分の想定の範囲内のいい句、と思うのです。選評を書くとき、書きやすい句というのがあります。それは単にいいところを指摘しやすい句のことです。でも、自分が上手に言いたいがために、自分の思うすごい句をないがしろにするのは、言うまでもありませんが本末転倒です。自分を超えたところにある驚きに、少しでも自分が近づくために、噛み砕いていくようなことをしていきたいと思っています」(「里」2013年8月号)

正岡は歌集『四月の魚』(まろうど社)で知られているが、この歌集はもう手に入りにくく、「短歌ヴァーサス」6号(2004年12月)に掲載された増補版で読んでいる方も多いだろう。その正岡が第二歌集を準備しているということで、当日〈『白い箱』ショート・エディット〉というプリントが配られた。

一瞬ののちに失われるものがわたしとあなたの間にあった   正岡豊
恋やこの高尾清滝あの鳥はわたしよりあたたかいかも知れない
オオアリクイ ひどいじゃないかわたくしの風穴ごしに餌を取るとは

会場には『天の川』の入集俳人のうち、曾根毅・中山奈々・藤田哲史・中村安伸の姿も見られ、トークでもその作品が取り上げられていた。書店の中のコーナーでこういうイベントができるのはいいものだなと思った。対談終了後、私はサイン会の列に並んで佐藤文香のサインをもらったのだった。

「里」175号に話を戻すと、堀下翔が「俳句雑誌管見」のコーナーで、「そんなふうにして書いているうちに気付いたのは、現俳壇の諸作家の出立にあたる戦後の俳句史、とりわけ1970年代以降の歴史がほとんど記述されておらず、調べものに不便だということであった」と書いている。資料が豊富と思われる俳句においてもそうなのか。対象を限定した俳句著述はあるものの、1970年代以降の包括的な俳句史記述としてはNHKラジオ放送のテキスト『俳句の変革者たち』(青木亮人)くらいだという。
時評というものはむつかしいものである。気になったので、堀下が挙げている筑紫磐井の『21世紀俳句時評』(俳句四季文庫)を開いてみた。平成15年1月から平成25年1月までの10年間にわたる時評である(現在も進行中)。そこにこんなことが書いてある。
「さて、初めの十五年を眺めて、二十一世紀のこれからをどのように予想したらよいか。やはり俳人はつぎつぎに更新されて行く必要があり、新しい世代を呼び込めない文芸ジャンルは滅ぶしかない。その意味で前述のように新しい世代が登場していることは俳句にとって希望である」
何だかギクリとさせられる。

最後に、『天の川銀河発電所』から引用したい句はいくつもあるが、ここでは宮﨑莉々香の作品を書き留めておくことにする。

ひきだしに鈴トナカイのその冬の   宮﨑莉々香
桜蕊降る再生がとどこほる
あばらからみはらし花野へのつながり
からくりの手がうきくさの影になる
しんじてもかぜはさくらを書きくだす